新日本すし紀行
第26回 鹿児島県の酒ずし
酒ずし…。魚やご飯を盛りつけた上から豪快に酒をかけて、ぐい〜っと飲み干すようにすしを食べる薩摩の男たち! かの西郷隆盛も大久保利通もこんなふうに食べたのであろうか。いやぁ、本当に勇ましい!
…などと考えられがちな酒ずしであるが、これ、ちょっと考え落ちがある。
まずこの酒ずし。使う酒は「地酒」という特殊な酒である。「『地酒』というからには鹿児島の酒だろ?」というあなた。わかってないなぁ、それは清酒の「地酒」。酒ずしに使う「地酒」は、難しくいえば灰持酒(あくもちざけ)。同じ文字で同じ読みでも、発音が平ぺったいのが地元の酒の「地酒」、前の「ぢ」にアクセントを置くのが酒ずしの「地酒」。わかりにくいので、ここでは、「地酒」といえば酒ずし用の酒をいうことにする。
「地酒」はアルコール度数は清酒と同じだが、みりんのように甘い味わいである。これを混ぜたご飯に、海や山の幸や季節の食材を散らしたものが酒ずしである。昔は、女性は男性のように清酒は飲めないが、地酒をたっぷりふりかけた酒ずしなら、だれの目をはばかることなく食べることができた。もちろん、しっかりと酔う。
「地酒」の製法は木灰を混ぜることにより、腐敗の原因となる細菌の繁殖を防ぐ灰持酒のひとつである。細菌の繁殖を防ぐには火入れ法(熱して酵素を死滅させてしまう方法)が有名だが、それが確立していなかった時代には「灰持」という、もろみに灰を混ぜる方法が使われていた。奈良時代以前からあり、かつては西日本各地で作られていたが、戦時統制によって、一時期は絶滅した。今日では島根県出雲地方の地伝酒、熊本県の赤酒、鹿児島県の「地酒」の3つが復元されている。
次に、パンフレットなどでは桜島をバックにして酒ずしの写真が載せられ、いかにも「鹿児島の味」「薩摩の味」というように紹介されているが、地元で気軽に食べられるかというと、そうではない。かつては一般庶民のお祝い料理でもあり、また、山間地帯と漁村地帯、薩摩地方と大隅地方、旧家と一般などでは入れる具に多少の相違があり、殿様や上流階級のごちそうから、庭で生えたヨメナをご飯に混ぜて「地酒」で漬けた簡素なものまであった。だが、実際に探すと相当困難で、獅子文六が、昭和39年(1964)、小説『南の男』の中で書いているように「近頃では、どこの家庭の主婦も、お手上げ」、つまり、一般家庭料理としては消えたといった方が正しいといえる。やはりこれは、戦時中に「地酒」の伝承が途絶えてしまった原因なのであろう。
福元万喜子さんは、東酒造の創始者・東喜内氏の孫である。喜内氏は戦中、材料がなく、まったく途絶えていた灰持酒の製法を、戦後、復元した人物である。「灰取酒」の銘柄である「黒酒」は東酒造の登録商標。アルコール度数は14.5~15.5度ある。
会社を受け継いだ福元さんは、毎年4月25日、社の創立記念日に、社員やその家族にふるまうために、母ゆずりの酒ずしを作る。それを聞きつけて「私にも教えて」との声が上がる。仕方なく教えることもあるが、このすしは少量ではなかなかその味が出ないため、分量のハードルが高い。また、作ってから食べるまでに「発酵期間」が必要なため、仕上がるまでの時間が取れないこともあって、普通の料理教室のようにはゆかない。こういうわけで、表立っての料理教室はできない。
なんとか東酒造の製品が売れるようにいろいろ考えてはいる福元さんだが、とくに灰持酒の使い道は酒ずししか知られておらず、売れ行きにはつながらないのが実情だ。酒ずしの作り方は、ちゃんと伝えるのは大変である。

酒ずし作りは、まずご飯を炊いて熱を冷ますところから始まる。これは使う黒酒が灰持酒、すなわち火入れ処理をしていないため、酵母や酵素がまだ生きており、熱を持ったままだと効力を持ち続けるためである。
黒酒は米3升に対して4升の割合。これにスプーン1の塩を混ぜ、合わせ調味料としてご飯に混ぜる。酢の分量が多く、ザブザブと「酒漬け」のようになるが、気にしない。それでも、酢は全部を混ぜるのではなく、少し残しておく。



酒ずしの桶は、朱と黒の塗りの重厚なもの。ここに「清めの塩(桶の一番底になる部分に塗る、わずかばかりの塩)」を振って、先ほどの冷ましたご飯を入れる。ご飯は4等分しておき、そのひとつを平らに敷く。上に1段目の山の幸の具(シイタケ、タケノコ、ツワ=フキ)を並べる。このほか、干しダイコンを入れてもよい。この時、残しておいた合わせ調味料を、手水のようにふる(以下、同じ)。次にまたご飯(の1/4)を広げ、ここに2段目の練り物(ツケアゲ=薩摩揚げ、カマボコ、コガヤキ=玉子焼き)とミツバを乗せる。またご飯を広げ、3段目の海の幸の具を乗せる。この日はタイ(錦江湾産。最近はあまり獲れない)、イカ(アカイカよりミズイカの方が、味が濃くてよい)、赤エビ(4月から6月が旬)で、それぞれ半量を入れる。またご飯を広げ、表面には彩りのよい、薄焼き玉子(菱形に切るのが伝統)、タイ、イカ、エビ、タケノコの穂先、木の芽(サンショウ)、ミツバ(サンショウが多ければ、ミツバは少なくなる)を全面に乗せて、飾る。残った手水、いや「手酒」も振りかけて入れる。


ハランを、葉脈の筋がつかないように裏側を上にして敷き、蓋をする。その上に重石をひとつおく。桶の上端、ぎりぎりの線まで酒が上がってくるため、その状態をキープするため、以後、時間が過ぎるとともに、重石をどんどん重くする。この状態で、最低、約5時間ほど置く。



その間、私たちは付近をドライブして過ごしたが、福元さんは酒ずしにかかりきりで、重石も3つに増えていた。漬けたら出来上がりまでどこかに出かけて待っていればよい、などというものではない。酒ずしの管理は大変なのである。

さて、蓋を開け、ハランを除くと、酒ずしが顔を出した。ピカピカと光っているのは、最後に入れた「手酒」のためだろう。その一角をしゃもじですくい出す。「これは仏様にお供えする分」と福元さん。「中身はミルフィールになっているでしょ。だけど、それをそのまま盛りつけるのは無理だから、こうするんです」と、桶のあいたところで、残りの部分をしゃもじで混ぜる。いや、豪快!。数分後には、きれいに混ざった。
酒ずしは殿様料理ともいわれる。かつて花見の宴が開かれ、料理が残ったものの、それをそのまま、放置した。翌日、残ったご飯や肴に酒がかかってグチャグチャになったところから、よい香りがしていた。これが酒ずしの起源であるという。
昭和天皇妃・光淳皇后が薩摩の出(母が、最後の藩主・島津忠義の娘)だったことから、鹿児島にお越しの際には必ず酒ずしを食べた。また、やはり鹿児島出身であった白洲雅子が東京で郷土料理をふるまった際にも、酒ずしが出された。このように、酒ずしは「上流階級の味」であった。



福元さんは「ニンジンなんか使いません。あれを入れると、一気に惣菜になってしまいますから。タケノコが出て、木の芽がやわらかくて、お魚も美味しくて…。本当に、春満開の味です。酢で締めたり昆布で締めたりした魚を使う人もありますが、私は嫌。おいしくないんですもの」という。やはり上流の人である。また、ごちそうゆえに、副食には大したものはいらない。「ガランツ(ウルメイワシ)の干物でもあればいいんです」とのことだったが、この日はタイの潮汁が出た。おぉ、ここでも「豪勢なもてなし」を受けた!
味は、たしかに酢ではない、酒だ。でも、すしの味はする。なんとも不思議な味わいである。食べるにしたがい、鼻からフワッと酢、ではない、酒が抜ける。「好きな人は、上から黒酒をかけて食べるんですよ」。いわれるままにスプーンに酒を注いでいると、「そんなんじゃダメ。こうしなきゃ」と酒を瓶ごと持ち上げて、ザブザブザブ…。「もう、酒の香りも何もあったもんじゃない。こりゃ『お茶漬け』ならぬ『酒漬け』だな」。
観念したかのように酒をすすりながら、一緒にご飯も掻き込んだ。が、なんだ、この心地よさは。だいたい、酒がとがっておらず、なんともまろやか。そして、タイやイカがやわらかくていい。タケノコが、シイタケが、サンショウが、酒の香りに乗って、姿を表わす。左党の私には格別だが、お酒がダメという人にはどうだろうか。しかしそんなことを考えるのも面倒になる、それくらい、フワフワと、いい気持ちになってくる! 早々とその独特な風味に、酔ってしまった私がいる…。うん、これが酒ずしか!
「最もよいのは冷蔵庫に入れて翌朝までもたせたもの。春の香りが漂って、味もなじんで、そりゃあもう美味しいものですよ」と福元さんはいう。その優し気な口ぶりに、なんとなく下戸に見えたが、「お酒は大好き。酒ずしだって、小学校の時からおいしく食べてたんですから。お料理をやるようになってからは、この料理にはワイン、この料理には焼酎って、お酒に合う料理を考えていたもんです」。お邪魔した日は、近所の公園では夕方から夏祭りであった。福元さんは、今から夜の振る舞い酒が楽しみで仕方がない。

昨日、福元さんの作ったすしをいただいた。昨日とは違って、ご飯粒がもっとやわらかくなっており、「発酵する」という意味がよくわかった。ザブザブという感じが残っていたようだが、水気、というか「酒気」はほとんどなくなっていた。
また、昨晩、別の店でも酒ずしを食べた。予約なしでも食べられる料理屋のものだった。こちらは福元さんのすしよりも前に漬けたようで、ご飯粒がやや潰れている、いい換えれば「より発酵された」感じがするものだった。
どちらがよい悪いの問題ではない。お好みの味をお楽しみくださればよろしい。


































