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新日本すし紀行

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第18回 敦賀のニシンずし

敦賀のニシンずし (福井県)

 京都北部から北陸、そして東北地方の日本海側と、共通した食文化がある。それはニシンずし。細かく切った身欠きニシンとダイコンやニンジンなどをご飯と糀とに混ぜて発酵させた、冬場のごちそうである。厳しい寒さの中、魚や野菜をできるだけなまのまま食べたいという願望からできたのであろう。ところがここ敦賀の地では、夏から秋のごちそうとして食べる習慣がある。入れるのはニシンと糀…、まではいいのだが、野菜がナスやキュウリやミョウガなど。夏野菜や秋野菜が使われる。よそではあまり聞かない、ちょっと変わったすしである。

 敦賀の町から車で15分。海から少し離れただけだが、ずいぶんと山の中に来た気がする。

 ここはかつての刀根越え(柳ヶ瀬街道)筋の要衝で、昔は鉄道も通っていたが、今は北陸自動車道が通る。刀根の地名は、口伝では日本武尊と神功皇后の皇子の仲哀天皇が三韓遠征の際、敦賀に行幸し、その時にこのあたりの豪族が刀根越えの坂道を修復した。この豪族の名前・庄内刀根に由来するという。この坂は、天正元年(1573年)8月13日、小谷城の戦いで浅井長政を助けるため、柳ケ瀬(滋賀県余呉町)に布陣していた朝倉義景勢が疋田(ひきた)に敗走の途中、この坂で織田信長勢の追撃を受けたことでも知られている。

 以前、この「時期はずれ」のニシンずしのことを聞き、田中静穂さんの家へごちそうになりに来たことがある。ちょっと時間がたっていたこともあって道に迷っていた筆者は、あたりにいた人に、今日お邪魔する平川芳枝さんのお宅を聞こうとしたら、「あれ、日比野さん」とひと言。その人が田中さんであった。かつてこちらを訪問した際、「ここらあたりで評判の、料理上手な方」としてお手伝いに来られていた人が平川さん。今日は「お手伝い」ではなく、主役となってすしを作ってくださる。楽しみだ。その平川さん宅はすぐ目の前だった。

 「まぁ、ようこそ」とにこやかに出迎えてくれたのは平川さん。中から「遠路はるばるご苦労さんなことで…」と、ご主人・幹夫さんも歓迎してくださった。あいさつも早々にすませ、こちらとしては「試食を」といいたいところであるが、作ってくださる、といっても、このすしは発酵ずしだ。作ってから10日から2週間くらいは待っていなければいけない。また来なきゃいけないのか…。

 しかし平川さんの手にぬかりはない。「これが10日ほど前に漬けておいたものですよ」と「完成品」を出してくれた。「こんな遠いところ、そうそう来られないでしょ? まず、ニシンずしを味わってもらわないと」。素晴らしい心遣いである。平川さんの持っている皿にどっさり盛られているのが、ニシンずしである。

 ニシンと一緒にナスとキュウリとミョウガが見える。「ふつうは冬場の保存食なんですが、こちらの方では夏バージョンもありまして…」と平川さん。聞いてきたとおり、これは刀根だけの特産品であった。お話を聞きながら、ボリボリ、バクバク、ポリポリ…。こんなにもにぎやかな擬音が聞こえるのもめずらしい。時々「あ、これがミョウガね」とか「キュウリの音が新鮮」といった感想も聞こえてくる。うん、ダイコンが入っているものより、味が濃い。お茶を出しながら平川さんは「キャベツをつける人もあるんですよ。うちじゃやらないけども」と、笑いながらいう。苦手な人のために、さっとあぶったすしも出してくださった。ニシンの身がふんわりとやわらかくなって、これもいい。

福井県敦賀のニシンずし福井県敦賀のニシンずし

 「それじゃあ、漬け込みを見ていただきましょうか」と平川さん。さっそく、すし作りが始まった。ポリ容器を準備して、スタンバイOK! 「昔は笹の葉っぱなんかを使ったんですけど、今はこの方が便利ですから…」と、中にビニール袋を敷く。

 ポリ容器の周りにはニシン、糀、キュウリ、ナスとミョウガ、タカノツメ、そして調味料は酢と調味液。ニシンは身欠きニシンを米のとぎ汁にひと晩浸けてあく抜きしたもので、ひと口サイズに切ってある。平川さんがていねいに筋やゴミを除いたものであることはいうまでもない。キュウリ、ナス、ミョウガは塩漬けだが、ミョウガはナスと一緒にして漬けたため、色がすでに紅紫色に染まっている。調味液は淡口醤油と酒とみりんを等量、混ぜたもの。これらを層にして、順々に漬け込んでゆく。

 あまりにも簡単に漬けていかれるので、平川さんにコツを聞くと、「そうねぇ、なるべく同じくらいの厚さになるようにすることかしら」と何ごともなくいいながら、機械仕掛けのように手を動かす。「そうそう、ニシンを漬けたらそのすぐ後に酢をかけるの。こうすると生臭みがなくなるわ」。手慣れた平川さんには、食材が何等分かしてあるように見えるのだろう、きっちりと計ったように手に取って、桶の中に詰める。見る見るうちに、それぞれの食材の乗った皿は空になってゆく。

 最後にビニール袋の口を閉じ、落し蓋をし、重石を置く。2つで11キロ。「でも、もう少し重くしてやるんですよ」と平川さん。あとは冷暗所にて発酵させる。シラタジ(白い、カビのようなもの)が浮かんで来たら食べ頃だ。夏のすしなら4日くらいで食べられるが、秋になると1週間から10日ほど置かねばならない。冬ともなれば2週間。寒さとともに、発酵時間は長くなるのである。

福井県敦賀のニシンずし福井県敦賀のニシンずし福井県敦賀のニシンずし福井県敦賀のニシンずし

 それにしても、ご飯を入れないのに「ニシンずし」とは…。「そう、不思議なんです。ご飯を使うんであれば『すし』と呼べるのにねぇ。昔からだそうですよ」とご主人の幹夫さん。そうなのか。でも、すしからご飯の量が減ってしまうという、同じような動きは、北海道のいずしや青森県のイカずしなどでも聞く。発酵ずしが持つ、共通の「進化」なのかもしれない。
 昔のことをいうなら、仲哀天皇の頃はどうだったのかしら。まぁ、実在性に乏しい天皇のことだし、だいたい日本武尊の神代の時代には、糀を混ぜたすしなどなかった、というのがすしの歴史の定石。彼の時代までさかのぼるのは無理な話だ。
 だったら織田信長はどうだ? 彼の時代なら糀入りのすしがあっただろう?
 織田信長や朝倉義景の時代、刀根坂にこのすしがあったかどうかは、たしかに微妙なところではあるが、8月13日か…。ミョウガが出ていた頃であるから、あれば食べていたかもしれない。が、だいたいが戦さのまっ最中で、信長も義景も、すしにご飯が入っていたかどうかなど、気にしている場合ではなかったであろう。

敦賀市内の気比神宮の末社・刀根の気比神社
敦賀市内の気比神宮の末社・刀根の気比神社


日比野 光敏(ひびの てるとし)
1960年岐阜県大垣市に生まれる。名古屋大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了後、岐阜市歴史博物館学芸員、名古屋経済大学短期大学部教授、京都府立大学和食文化研究センター特任教授を歴任。すしミュージアム(静岡市)名誉館長、愛知淑徳大学教授
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