新日本すし紀行
第24回 富山市、源のマスずし
かつてデパートでは駅弁展が人気であった。もちろん今でも盛んではあるが、ひと昔前のそれは、旅へのロマンや憧れ、またはある種のノスタルジーを感じさせる、独特の雰囲気を持つものであった。
そこの首位に位置づけられたすし弁当の中に富山駅の「ますのすし」があった。周りの弁当が経木仕立ての折り詰めが主だったところを、駅弁としてはめずらしい曲物の桶に詰め込んだ「異色」の風体であった。むろんこれは駅弁屋が作った新作の容器ではなく、江戸時代、天皇家や将軍家へ献上するすしの容器を真似たもの。富山藩も徳川将軍家へすしを献上した、という事実がある。当時のすしは発酵ずしで、今のすしとは相当違っていたものであろうが、その献上の姿はたぶんこんなであったろうと想像できるのではないか。そんなすし容器を今に蘇らせたのが、現在の富山駅の駅弁会社・源である。
と書くと、「冗談じゃない。マスのすしを売り出したのは源が最初じゃない」という声が出てくることは、すしの研究を長年やっている筆者にはよくわかっている。事実、明治21年(1888)刊の『中越商工便覧』には「関野」や「野崎」などの店がサケのすしを商っていると書いてある。当時はサケもマスも明確な区別はなかったため、これがマスのすしの古い記録だと思われる。
対して源は、当時の名前は富山ホテル富山支店。もとは料理店であったが、ホテルの創業は明治33年(1900)である。ここが北陸鉄道富山停車場(現・JR富山駅)から構内営業の許可を受けたのが明治41年(1908)。その4年後、富山ホテルは初めてマスずしを売り出す。「関野」や「野崎」は明治11年(1878)創業の看板を掲げているから、マスずしを扱ったのは両店の方が早い。ちなみに、現代の富山で一番古い看板は、明治5年(1872)創業の「高田屋」と伝わっている。いずれも、源よりも先輩である。
けれども、一地方の郷土ずしでしかなかった富山のマスずしを全国区にしたのは、なんといっても駅弁の力は大きい。その意味で、富山のマスずしを見るために、株式会社源へお邪魔した。郊外にある本社には「ますのすしミュージアム」がある。展示を楽しみにしていたが、まずは仕事だ。筆者らを出迎えてくれたのは源八郎さんと福村文治さん。源さんは株式会社源の最高顧問である。応接室での会談かと思っていたら、広々とした空間、窓からはすばらしいお庭、床にはお花まで活けてある、雰囲気のある和室に通された。お忙しい方々だから面会時間は2時間、あいさつや名刺交換などで30分を差し引いて、1時間半以内という制限時間での取材が始まった。


数ある質問事項はあるが、筆者の一番の疑問は源の駅弁事業開始のことである。まずはその頃のマス事情を聞いた。もともとは春季の季節モノであった。以下、源最高顧問の話。
「マスずしのマスはサクラマスといって、春が旬です。今みたいに冷凍技術も冷蔵技術もない明治のころは、すしは4~5月の季節販売でしてね。戦前から冷蔵技術が出てきたんですが、サクラマスが年中販売になるのは昭和30年代に入ってからのことです」。今では年中食べられるマスずしであるが、当初は春先だけのものだった。これにはまず驚いた!
「だいたいそれまではマスずしなんて、地元の人しか知らない。ここらあたりですしといえば神通川のアユずしで、うちの主力商品もアユずしでした。アユずしも季節販売ではありましたが、春先から10月末まで販売できます。サクラマスよりも販売期間が長く取れますからね。うちでも10年になるかなぁ、アユずし販売を止めてから。でも、アユは腹が弱くて傷みやすかったから、サクラマスのすしも出していたんです」と源さんの話は続く。ってことは、駅弁開始当時には、マスずしもあるにはあったが、主力商品はアユずしであったってこと。これが驚きのパート2である。
で、「富山といえばマスずし」となったのはいつからだったのだろう。これには福村執行役員が応えてくれた。氏は富山テレビ放送のテレビマンの出身で、細かなデータを持ってきてくれた。「それは高島屋の駅弁大会でした。昭和31年(1956)の第1回目の大阪会場での資料は不明なのですが、昭和32年(1957)の横浜会場でおこなったものには、うちの社のマスのすしの写真が出ています」。
しかし当時の富山駅弁の主力商品はアユずしであったはず。とすれば、富山駅弁としてはアユずしが出展されるのが当然ではないか、と問い詰めると、「これは私の推測なんですがね」と源さん。「アユずしっていうのはどこにでもあるでしょ? いくら神通川のアユが有名だといっても、それと同じようなところ、たとえば長良川とか由良川とかあるじゃないですか。それに比べてマスのすしは、ほかに類がない。入れ物の曲げわっぱというのもめずらしい。だから当時の国鉄が目をつけたんでしょう」と、自論を展開する。
その頃から、時代は高度成長期を迎える。レジャーブームや旅行ブームに帰省と、盆正月をピークとしてどんどん客が集まる。富山駅もそうであった。ところが富山には土産物がない。というのも、富山藩は加賀藩の分家藩で、茶の湯の文化を発達させることができなかったからよい菓子文化がなかったのである。代わりに売れたのがこのマスずしであった。源さんは「藤ヅルで巻き締めるかたちのものは、駅弁として車内で食べるというより、帰ってからみんなで食べたんでしょうね」と語る。あまりの売れ行きのよさにマスずしを増産しようとするが、魚をおろす人がいない。結局、富山駅弁の「ますのすし」は買いたくても買えない、という評判ばかり経つ。しかしそれがまた希少価値を生み、人気を高めてきたわけである。

筆者は次の質問へと移る。「ところで、源さんでは『ますのすし』ですよね。他は『マスずし』(表記はひらがな、かたかな、漢字などがある)です。なぜ違うのですか?」。それについては明確な答えが、源さんから返ってきた。「皆さんそうおっしゃいますが、『ますのすし』も『マスずし』も正解。呼び方はふたとおりあるんです」だそうだ。「今のすしは本当にたくさんの業者がありますが、系統は関野屋系と高田屋系のふたつです。決まりがあるわけではありませんが、関野屋系はマスずし、高田屋系は『ますのすし』と呼ぶことが多いようです」。ということは、源は高田屋系というわけか。
そんな話をしていると、源さんの指示で、「ますのすし」が2切れずつ出てきた。「あとは、食べながらやりましょう!」。まず運ばれてきたのは醤油差し。これはマスずしには醤油をかけて食べろという意味か?、と訝し気な感じになったが、そうではない。「かけた時とかけない時で、味がどんなふうに変わるのか、感じてみてください」。
そこでまずそのままでパクリ。うん、おいしい! 次に醤油をかけて、それからパクリ。あれ、これもおいしいが、味がなんだか違うぞ。何もかけない方はマスの味がストレートに感じられるが、かけた方は醤油の味が強いためか、マスと醤油の味が混在としてくる。
福村さんがいうには「これも2系統ありまして、先の関野屋系では醤油などかけなくてもいいように、砂糖を多めに使って甘めに仕上げるのに対し、高田屋系では砂糖を控えめにしている。だから味が少ししょっぱい。そのため、醤油が欲しくなるんです」。源さんもいう。「どちらが正しいというわけでなく、お客さん個人個人で、お好みの味、お好きな業者を決めて下さればいいんです」と、一会社の経営者らしからぬ太っ腹なところを見せる。「え、源ですか? うちは高田屋系といわれますが、味は中間型かもしれませんね」。
もっといっぱい聞きたいことがあるのだが、時間制限が目いっぱいの頃である。最後にこれからの「ますのすし」の未来について、源さんにお訪ねした。以下、彼の言による。
「これからはおしゃれなすしを目指そう、ということですな。この間、JR富山駅でマスずしの食べ比べをやって受けたでしょう? これからはああいうふうに、少しずつ、小分けにして、いろんな味を楽しめるようにしなきゃいかんです。そのためには、昔風の曲げわっぱなんかにもこだわらなくて、ですね。また、すしを冷凍にしておいて、食べたいときに食べたいだけ食べる、そういう時代になってきてるんです。うちなんか冷凍すしの解凍方法を、ネットでていねいに教えてあげてるんですよ」。未来を語る目は、だれよりも輝いている。うん、強い決心を聞いた。
源さんのおことばは最高顧問のおことば。大きな未来への方針を持つ株式会社・源は、新しい「ますのすし」の歴史のページを繰ってゆくことだろう。今後の心意気を聞かせていただき、筆者らはお忙しい中をお時間をお取りいただいたおふたり、および、そのお取り巻きの方々に深くお礼申し上げ、取材会場を後にした。駐車場でも社員の方にお見送りしていただき、恐縮至極の境地で社を出た。よい取材であった。
…のだが、とんでもない事実に気がついた。せっかくの「ますのすしミュージアム」を、筆者は見忘れていたのである。嗚呼…。
また、次の機会を待つことにしたい、というか、そうせざるを得なかった。お恥ずかしい。




































