新日本すし紀行
第25回 長野県飯山市の謙信ずし
ある料理雑誌に各地の郷土料理を紹介する欄があり、「山梨県の郷土料理」として「信玄ずし」というすしが、笹の葉の上に素朴な山菜を乗せたすしの写真とともに記載されていた。さっそく取材してみようと現地の観光協会や教育委員会などに問い合わせたのだが、「知りませんね」とのこと。それならば、と、その雑誌の編集局に問い合わせ、実際にそのすしを作ってくれた方からお話をうかがうことができた。
で、その方が曰く、「あれは私たちが考えた料理です。信玄といえば謙信でしょ。お隣の県にある『謙信ずし』を参考にしたんですよ」と。あららら。昭和になってからの新作ずしだったか。私の郷土料理の定義(明治以前の発生伝説を持つすし)からは外れている。現地調査の計画は中止し、先様には丁重にご辞退申し上げた。
少していねいにいうならば、戦国時代、甲斐(山梨県)を拠点に勢力を伸ばしていた武田信玄と、越後(新潟県)を拠点に勢力を伸ばしていた上杉謙信がいた。2人は天下統一を目指すライバルであり、双方の領国の境・信濃(長野県)にある「川中島」なる戦場で何回も戦った間柄であるが、同時に、よき好敵手でもあった。だから「信玄といえば謙信」なのである。
その「信玄ずし」が参考にしたという「謙信ずし」のふるさとは長野県飯山市富倉地区、北の端で、旧・飯山市街からは遠い。こちらは相当の歴史があり、一説には上杉謙信が兵糧食として愛用したものとも、富倉地区の人々が上杉謙信に献上したものともいわれる。富倉峠は、上杉謙信が川中島の戦いに向けて通ったところである。形態は、笹の葉の上ですしご飯を小さく握り、上にゼンマイ、タケノコ、シイタケ、クルミなど山の幸を地域や家庭によって工夫してあしらい、錦糸玉子や紅ショウガで彩りを添える、といったもの。すしご飯に餅米を混ぜる家庭もあれば、具材にヒジキや味噌漬けを乗せる家庭もある、とガイドブックには書いてある。
というわけで今回は長野県飯山市へと赴き、「謙信ずし」を取材した。飯山の駅を降りると、「いいやま謙信ずし」と書いたのぼりが目についた。街を挙げて宣伝しているのがわかる。

飯山市の案内は丸山陽子さんが引き受けてくれた。同氏は飯山市の生まれ育ちであるが、富倉地区の出ではない。しかし、昔、丸山さんのお父君の会社が石炭を掘りに富倉地区へ出かけており、さまざまなものをいただいてきた。富倉の昔ながらの食習慣をよく知る人である。
市内には謙信ずしを出す店は数々あり、お昼ご飯で信州そばとともにごちそうになる。まぁ、上品な味ではあったのだが、個人的な好みをいえば、ちょっと薄味であった。正直にいおうかどうしようかとモジモジしていると、「昔のササずしって、こんなもんじゃないのよ。もっとご飯がテンコ盛りになってたのよ。あと、具にヒジキが入ってたけど、むかしはあんなもの、入れなかったわよ」と丸山さん。こりゃぁ気の置けない人だ。筆者も「あぁ、そうなんですか」と、これからの取材への緊張感が解けた。
その丸山陽子さんの紹介で行ったのが「いいやま食文化の会」。飯山市の郷土料理を残そうという趣旨で作られた会で、今年ではや20年を越した。謙信ずしのほかイモなます(ジャガイモの料理)、富倉そば(ツナギにオヤマボクチ=ヤマゴボウの一種を使う)、エゴ(海藻で、煮凝りのようにして食べる)などを調理している。出迎えてくださったのは代表の白井春子さんと理事の三井ひろみさん。野沢菜の醤油漬けを前にお話を聞かせてくださった。
「活動拠点は飯山市の街中でしょ? 富倉地区からは遠いじゃないですか。だいたい、富倉の会員さんっておられるんですか?」と、いささか厳しい話を切り出したのは筆者である。それに対して白井さんが「富倉の会員は誰もいないのよ。私らはもともとすしなんかやっていなかったんだけれど、私らの活動を富倉の人が見てて、私らに富倉のすしを守ってほしいと頼んできたの。それから米の配合とか酢の味、具の作り方とか、それこそ昔ながらの習慣すべてを教えてもらったわ。だからうちの会のレシピは、正真正銘、富倉の人ゆずりよ」。へえ、そうだったのか。
「でも、さすがに昔どおりじゃ、商売にならなくて」。具はゼンマイ、味噌漬け、クルミなどであったが、今ではゼンマイだけではなくワラビも入るようになった。ゼンマイが不足しているのである。味噌漬けは富倉では3年寝かせるものであったが、そんなことはやってはおれない、今では2年モノを使う。クルミも、ヤマグルミ(天然モノ)からカシグルミ(栽培モノ)へと変わった。また、昔はでんぷが乗っていたが、今では彩りに錦糸玉子や紅ショウガを乗せるようになった。「玉子を使ってないから長持ちするのよ」。ご飯もほかの業者に比べると大きめだが、丸山さんがいうのより小さい。「昔どおりの大きさにすると、ご飯がポロポロこぼれるの」とのことである。
ご自慢の味はどうか? 会の皆さんの労作をいただく。こちらは先ほどのに比べて、ずっしり来る味。「酢も砂糖もしっかり利いてるからね」と、白井さんはにっこり笑う。「正しいおすしの食べ方は、(ササの葉の)頭の方から食べることよ。こっちを少し下げてやると、ご飯とササの葉の間に隙間ができて、食べやすいの。全部食べ終えたら、サッと葉が捨てられるしね」。理にかなっている。


以前は、祝い事や祭りなどがあると各家庭で作っていた、そんなハレの日の食としてあったササずしは、飯山市富倉で古くから親しまれて来た郷土料理として、平成19年(2007)に、長野県の無形民俗文化財に指定された、と、そこまでいうと、三井さんが「富倉のすしってふたとおりあるんですよ」という。「どちらもササずしですけど、ひとつは箱ずしなんです。昔は大きな箱で作ったそうですよ。これが長野県の選択無形民俗文化財(平成12年3月指定)。もうひとつが、私たちが作っているこのかたちで、謙信ずし。こちらは市の選択無形民俗文化財(平成19年11月指定)なんです」。
なんと! 飯山市のササずしにはふたとおりあって、それぞれが違った文化財に指定されていたとは! 知らなかった!! ちなみに地元の人の中には、白井さんらが作るのを「わらじずし」と呼ぶこともある。また、古くからあるのは箱ずしの方であったという。
「それにしても、なぜ富倉だけにササずしがあるんでしょうねぇ」とつぶやくと、白井さんがいう。「これから下の新潟県の南部にも、似たようなすしがあるわ。あちらは上杉様の本拠地だからねぇ、むしろここより盛んなんじゃないかしらね」。「え、本当ですか!? でもあるガイドブックには『謙信ずしは飯山市の名物』って書いてありますよ」「あぁ、『謙信ずし』という名前は飯山だけの呼び方よ。一般的には、すしは『ササずし』って呼ぶのよ」。ということは、この「謙信ずし」はササずしの一種というわけか。なるほど…。


あ、このササずし。すしの歴史からいえば、今のように酢を使うようになったのは、どう古く見積もっても江戸時代中期のものである。「だから『謙信ずし』とはいっても、所詮は後から作ったお話…」と笑い話で済ませることにして、原稿は終わりにしよう。もうひとつの楽しみは、隣村の野沢温泉の外湯。仕事納めに湯に浸かりつつ、知り合った初老の御仁にそんな話をした。そしたら真面目な顔で「今のようなすしになったのは新しいかもしれんが、米と山菜で、すしの原型を作ったのは謙信公だ」と断言されてしまった。その可能性もないわけではないが、裏付け史料はなんの証拠もないのだ。いや、それ以上に驚いたのは、わざわざ歴史上の人物にまで「公」をつけるとは、人心の中に「上杉謙信」が生きているところだなぁ…。
だから、「何百年も後のわれわれの世にまで『ササずしの祖は…』という話にその名を残すとは、さすが上杉謙信だけのことはある」。このような答えでお茶を濁すことにしておこう。

































