facebook line

すしの歴史(4) 江戸の握りずし文化と華屋与兵衛

すし飯で作る現在のおすしは、いつ頃生まれたのでしょうか。
それは、江戸時代中期1700年代前半頃になります。現在のおすしの原型となるお酢を使った『早ずし』が誕生しました。『早ずし』は、飯にお酢と塩で味付けしたものです。

江戸時代中期には『箱ずし』『巻きずし』『棒ずし』など今でも愛されている様々なおすしが作られるようになりました。ちなみに、江戸の街は『握りずし』が誕生する前は、『箱ずし』が人気だったそうです。

それでは『握りずし』はいつ頃生まれたのでしょうか?
それは、江戸時代後期にさかのぼります。1800年代前半頃、江戸の街で誕生しました。

当時の江戸の街は、100万の人々が暮らす大都会。
単身の男性が多く、『すし』『蕎麦』『天ぷら』などの屋台が人気でした。

では、屋台で人気の『握りずし』は、いったい誰が考案したのでしょうか?
残念ながら考案者は不明ですが、『与兵衛鮓』の初代主人、初代華屋与兵衛が大成したと考えられています。

当時の『握りずし』は、江戸前で獲れた魚貝を下処理したタネと、お酢と塩で味付けしたすし飯が握られており、その大きさは現在の2倍から3倍も大きかったようです。


庶民のあこがれ、松がずし

江戸期、幕末といえば、握りずしの世界は「江戸三すし」と呼ばれるすし屋が大評判でした。元禄時代以来の名店「毛抜きずし」、握りずし発祥の店ともいわれる「与兵衛ずし」、そして浮世絵などでも有名な「松がずし」です。

与兵衛ずしの話は⑦の「華屋与兵衛に関する銘店」のところで述べていますから、そちらをご覧いただくことにして、ここでは「松がずし」の話をしましょう。

「松がずし」は、実は正式な名前ではありません。正しくは「いさごずし」といいました。店主は「堺屋松五郎」といいました。「松がすし」「松のずし」「松ずし」などの別名は主人の名前からとったという説もありますが、私は地名によったものと思います。

「いさごずし」があったのは深川・御船蔵町(現・江東区新大橋)。ここは軍船型御座船(将軍など高貴な人が乗る船)・安宅丸(あたけまる)が埋められたところで、俗称を「安宅(あたけ)」といいました。ところがこの「安宅(あたけ)」と「安宅(あたか)」が混用されます。「安宅(あたか)」といえば、当時は歌舞伎「勧進帳」で人気のあった義経と弁慶の関所越えの舞台、加賀国の安宅(あたか)の関。それをもとにした「安宅(あたか)の松」は長歌や舞踊にもなり、多くの人に知られた名所でした。ゆえに、「安宅」の文字を見れば誰もが「松」、「安宅のすし屋」となれば、誰いうともなく「松がずし」などと呼ばれたのです。


余談に属するかもわかりませんが、よく出てくるすしの浮世絵に、歌川国芳の「縞揃女弁慶」というのがあります。女性が子供の前で皿盛りのすしを出している絵で、挿入の歌の一部に「おさな児も ねだる安宅の 松のすし」とありますし、女性が持っている折り箱にも「あたけ 松の寿司 さかゐ屋」とラベルが貼ってありますから、これは堺屋松五郎の「松がずし」をあらわしています。

でも、なぜこの絵が弁慶に関わっているのでしょうか。

実はこの浮世絵は、「縞揃女弁慶」という10枚シリーズのひとつで、他に9枚、同じ名前の浮世絵があるのです。もちろん、図柄はまったく異なりますが、どれも「弁慶縞(2色の糸を縦糸と横糸に使って格子状に織った『弁慶格子』の別名。芝居『勧進帳』で弁慶が来たのがこの柄の着物であったため、この名前がある)」の着物を着た女性が、お茶を飲んだりタバコを吸ったり、また洗い張りをしたりと、日常の生活風景を描いています。実はこれが弁慶の一生を見立てたもので、幼少期にはコイ退治をし、五条大橋では牛若丸(のちの義経)と出会い、三井寺では鐘を比叡山へと引き上げ、他にも一の谷の逆さ落としだの須磨の桜札だの、10枚の絵は見事に弁慶の生涯とリンクしているのです。その中の1枚が、先に述べた松がずしの絵。つまりこの絵も、安宅(あたか)の関所と安宅(あたけ)のすし屋の両方の知識があってわかる絵なのです。


さて、当時の随筆『嬉遊笑覧』に「松がすし出来て 世上のすしの風 一変し…」とあります。この「一変」を、握りずしの誕生と見る向きもありますが、「一変」を与えたのはその商法ではなかったか、と考える方が一般的です。堺屋松五郎は、その名前から、関西・堺あたりの人間だったと思われます。別の随筆『よしなし言』には、「安物ゆえ、食べると歯に触ることがあるかもしれない、そのため、すしの中に1朱銀を入れておく」という商売のやり方が出ています(1朱銀は銀の含有量を原価価格すると200〜250円ほど)。こういった現金に直結する関西風の、といっては失礼かもしれませんが、そんな商売法が、江戸の街にも出てきたということではないでしょうか。

「松がずし」のすしの価格はとにかく高く、やはり随筆の『甲子夜話』が「5寸(約15cm)の器に二重に盛って小判3両(簡単にはいえないのですが、幕末くらいなら今の価値で約20万円でしょうか)。すしを作った者が味見して、気に入らなかったら惜しげもなく捨ててしまう」と書いています。「算盤ずくなら よしなんし 松がずし」といわれるくらいの値段で、「与兵衛ずし」と同様、ここも贅沢禁止令の違反者として、天保の改革の処分の対象となりました。しかし、とんでもない価格の高さは庶民のあこがれにも似た思いにつながり、天保の改革の嵐が去ると、再び、名題の店になってゆきました。

数々の浮世絵に描かれ、たくさんのエッセイにも登場した名店「松がずし」、いや「いさごずし」は、明治の末年、店を閉じたといいます。

おすすめコンテンツ
江戸のすし屋台すし盛りの話
東南アジアから日本へ 日本古来の「発酵ずし」と、最古のすし屋「つるべすし 弥助」 なれずしからナマナレへの進化 江戸の握りずし文化と華屋与兵衛 握りずし文化を支えた半田の赤酢と中野又左衛門 各種すしの歴史 華屋与兵衛の流れを汲む銘店 関東大震災とすし職人 戦後のすし 回転ずしの誕生 すしからSUSHIへ すしの歴史TOP
PAGE TOP