すしの歴史(9) 戦後のすし
マッカーサーと委託加工制度
第二次世界大戦は昭和20年(1945)に終わりました。とはいっても、首都は焼け焦げ、人々は生きてゆくことに一生懸命でした。もちろん、握りずしの味を楽しむ、なんてこともありえませんで、日本は国を挙げて食糧難でした。政府は諸外国に、食料の援助を依頼します。ですが、ちょっと目を外すと、あるところでは食料がとんでもなく高い値段ですが、売られているのです。そう、闇市です。
外国に食料援助を頼んでいる手前、政府は徹底的に取り締まり、ついには決められたわずかな施設以外では、米のメシは売ってはいけない、という「飲食営業緊急措置令」を発令します。これは功を奏し、定食屋でもレストランでも喫茶店でもなんでも、飲食業者は、米は一切、売ることも食べさせることもできなくなりました。
ところが、すし屋はこんなことをいい始めます。「俺たちは飲食業者じゃぁない」と。「俺たちの仕事はすしを握ることだ。米は客が持ってくるから、米を売っているわけじゃない。米のメシをすしに加工する俺たちは『加工業者』だ」。
無茶な主張に思えますが、何とこれが警視庁を通ります。もちろんその後ろにはマッカーサー率いる連合国軍最高司令官、通称・総司令部(GHQ)がありましたから、これはGHQの決定も同然でした。
おかげですし屋だけは、大手を振って、堂々と商売ができたのです。客の中には、タンスの奥に大切にしまいこんであったのでしょうか、ナフタリンの臭いがする米を持ってすし屋に来る人もいたそうです。
