すしの歴史(8) 関東大震災とすし職人
今でこそ日本を代表する味、握りずしですが、これが全国に広がるのは第二次世界大戦以後のこと。それまでは、江戸に行かなければ食べられないものでした。もちろん、江戸の店の支店や出店みたいなものが、大都市である大阪や名古屋にないわけではありませんでしたが、握りずしは江戸の「郷土料理」だったのです。
明治時代、新政府は諸外国との新たな交易の中で、江戸幕府が結んだ条約の改定に躍起になっていました。治外法権や関税自主権の撤廃などです。歴史の授業で習ったこと、ありますよね。そのためには、日本という国が諸外国と同等の政治や経済、文化を兼ね備えた国家でなければなりませんが、実状はなかなか…。各地の状況は、日本人の目から見ても「遅れて」います。
そこでまず文化の側面から、江戸(東京)の文化を最高なものと規定します。当時の状況から見て、最も西洋文化に近いのは江戸(東京)です。国民全員が東京の人と同じようなものを着、食べ、同じようなところに住めば、その国の文化レベルも上がる、やがて文化国家になる、と考えたのでしょう。ですから、新政府は大いに推奨します。着物でなく洋服だ、和式建築より洋館だ。すしだったら江戸のすしだ、握りずしだ、というわけですね。
しかし、無茶でした。着物くらいは比較的簡単に直せますが、住まいなんか、いくら明治の世の中になったからそれに相応しいところに住めといわれても、おいそれと建て直したりできるはずもありません。だいたい、そんなことくらいで国家的に文化度が上がるなんて、どう考えても無理があります。ですからこの政策は、たいした効果ももたらしませんでした。
そんな折の大正12年(1923)9月1日、関東大地震が起こります。死者・行方不明者は推定10万5,000人。主として南関東地方は震災と火災の被害に見舞われ、多くの人が焼け出されました。中でも日本の首都・東京は被害が甚大で、人々は何をすべきでもなく突っ立っているだけです。
そんなとき、故郷から東京に出ていた人たちの中には、「もう、こんなところはイヤだ。ふるさとへ帰ろう」と考える人がいたのです。「ぼやぼやしていると余震が来るかもしれない」。急いで東京からふるさとへ行く人は後を絶ちません。今でいう「Uターン現象」が起こったわけですね。ですが、ふるさとでも働かなければなりません。「どうせ働くなら、今までやっていた仕事を続けよう」と、東京でやっていた仕事を田舎で始める人もいました。その中に、あの東京の郷土料理であるすし職人もいたのです。
こうして、江戸の握りずしを握る職人が、全国各地に広がったのです。
関東大震災から20数年後。今度は第二次世界大戦中です。昭和20年(1945)3月10日を筆頭に東京空襲が繰り返され、このときも大勢の人が被害を受けました。するとやはり何人かが「首都にいることは怖い。田舎に避難しよう」と考えました。当然です。まぁ、この時は強制疎開(防火帯を作るために建築物を強制的に壊すこと)などもあって、都会にいられなくなったこともありますが…。とにかく、関東大震災と同じ結果がまたも起こり、関東大震災を切り抜けて首都圏で頑張っていた江戸の握りずし職人までもが、何人かは地方転居になりました。
ともに未曾有の大災害で、できれば遭遇したくはないできごとでしたが、握りずしにとっては、全国展開する絶好のきっかけになったのです。

関連記事もチェック!

















