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すしの歴史(6) 各種すしの歴史

箱ずし

すしが酢を使わず、発酵させていた時代。作り方としては2通りありました。一つは、できあがりが1匹の魚の形をしている「姿ずし」。ほら、アユずしとかフナずしを想像してみてください。頭も尻尾もついていて、まるで一匹の魚のようでしょう? でも、たとえばサケのおすしなんかはどうでしょう。あれは漬ける魚が大きすぎますから、サケを切り身にしてからご飯に混ぜて漬けますね。これを「切り身ずし」といいます。

発酵させるすしは、やがてご飯に酢を混ぜた早ずしへと変わってゆきます。この「切り身ずし」は容器の中に、すしご飯と魚の切り身が入っている、つまり「箱ずし」になりました。はじめは、具は生の魚ばかりでしたが、次第に、煮た野菜なども使われるようになります。押す箱も、うんと大きくなったり、逆に小さくなったり。さまざまなバリエーションが生まれます。

箱を大きくしたのが、山口県の「岩国ずし」や高知県の「こけらずし」でしょう。深い箱の中で何段ものすしを作り、切るときはノコギリのような大きな包丁を使います。長崎県の「大村ずし」は、昔は脇差を使って、すしを分け与えたそうです。

最も進化したといわれるのが、大阪の箱ずしです。江戸時代の半ばになると具の量を増やし、明治時代には2寸6分(8.5センチ)角の箱の中にサバやアナゴ、玉子焼きなどをきれいに並べつけ、「2寸6分の懐石料理」と賞されるものまで現れました。

巻きずし

江戸時代の半ば、宝暦から天明年間の頃でしょうか。とある昼間、江戸の町の料理屋の2階で、ひとり、酒を飲んでいる商店の主人がおりました。商店とはいっても大坂の大店ではなく、江戸の札差(米の売買の仲介人)の当主くらいなものです。そんな男が、酔いも回ってきたのか、料理人に文句をつけています。曰く、「オレはここにある料理なんか、食い飽きた。今までに食ったこともないようなもの、たとえばこのサバずし。メシと魚とがひっくり返ったすしにしてみろい」と。

いくら酔っているとはいえ客は客。料理人は一生懸命考えて、すしご飯とサバの位置を逆転させます。魚にご飯を抱かせるのではなく、魚を細い芯にして、その周りをご飯で固め、輪切りにして出そうとしました。ところがそれでは外側にご飯が出るため、手にべたつきます。そこですしの外側に、和紙や魚の皮を巻きつけました。しかし今度は、いちいち口の中から和紙や魚の皮などを出さなければなりません。同じことなら、そのまま食べられるもので巻いたらどうか?

こうして生まれたのが巻きずしで、やがて全国に広がります。海に近いところではノリやコンブ、ワカメなどが、山の中ではタカナの漬け物などが巻く材料として使われました。芯も、魚から卵焼きやかんぴょう、ニンジンなどへと、精進モノに変わってゆきました。

稲荷ずし

油揚げの中にすしご飯。私はこれも、姿ずしの変形であると思っています。というのも、この稲荷ずしは、出始めた江戸末期には、切られて売っていたのです。たとえば嘉永5年(1852)に出た『近世商賈尽狂歌合』には、提灯を灯した露天店で、稲荷ずし売りが包丁を前にしながら「一本が16文、半分が8文、ひと切れ4文」と歌うところが見えています。包丁を持って稲荷ずしを売り歩くのは、ほかの資料でもよくみられることでした。

このように稲荷ずしは切って売るのですから、油揚げは四角いのが決まりでした。しかし今日では、東日本は四角なのに対し、西日本は三角。境界線は石川県から岐阜県、そして三重県へと抜けています。このラインは「関東」と「関西」を分ける線(愛発、不破、鈴鹿の関を結ぶ線)とも一致し、正月雑煮の四角と丸の境界もほぼ同じです。

油揚げの形だけではありません。中に詰めるすしご飯も、何も混ぜないか、混ぜても麻の実やゴマていどの白いすしご飯である東方に対し、さまざまな具を混ぜた五目ずしを詰める西方と、これまたきれいに東西が別れます。

なお、稲荷ずしはふつうのすし屋では、あまり好まれるものではありませんでした。一つは油で、手がベタつくから。もうひとつの理由は、稲荷ずしはあまりに安いため、自分たちの握るすしとは違うのだと、黙って主張していたのかもしれませんね。

ちらしずし

江戸時代後期の料理本『名飯部類』(享和2年 1802)に「おこしずし」「すくひずし」というすしが出ています。すしご飯に具を切り入れて混ぜ合わせ、箱に詰めて重石をかけておくもので、食べるときはご飯をヘラで掘り起こします。今の時代にはほとんど見られませんが、それでも静岡県伊豆地方や京都府北部、佐賀県白石地方などには、わずかに残っています。

これらのすしは、宴席にはこのまま出されます。掘り起こすのは宴席にいる人、つまり昔は男の人でした。しかも、お酒が入っています。そういう人がスプーンを使いこなすのは結構むずかしい。酔った手で四苦八苦しながら、ようやく小皿にとりますが、とったすしは、せっかく押さえたのにグチャグチャ。見るも無残な姿です。

「それだったら、最初から押さなくてもいいんじゃない?」 こうして、すしの中ではただひとつ。めずらしい「押さないすし」ができたのです。これがちらしずしです。具材は「シンプルでもよし、豪華ならなおよし」。今では最も簡単にできるおすしとして知られています。

「ちらしずし」の類語に「五目ずし」というのがあります。「どちらも同じ」とするのが今の日本ですが、ある地方だけ、「このふたつのすしは違う」というところがあります。それは静岡県。ここでは、白いすしご飯の上から具をふりかけるのがちらしずし、具を混ぜてしまうのが五目ずし、なのだそうです。

握りずしの盛り方

みなさん、握りずしの盛り方にはどんなイメージをお持ちでしょうか?

たいていが「流し盛り」と答えるでしょうね。「流し盛り」は別名を「雁流し」ともいいます。ひとつのすしを真横に置いた位置から右側を下げる要領でセットし、以下は右側へと並べていきます。よく見かける、基本的でシンプルなものですが、実際に盛るとなると、けっこう難しいんですよ。また、放射状に盛りつける「放射盛り」というのもあります。別名「花盛り」「四方盛り」「八方盛り」ともいい、正面がなく上下左右が対称になるので、どの角度からも豪華に見えるものです。上級者向けの盛り方のひとつに「散らし盛り」もあります。「流し盛り」の一種ともいえ、すしひとつひとつの間に余白を開けて、器に散らばるように盛り付けるものです。

このように、現代のすし盛りは一段盛りにするのが一般的です。ところが握りずしの出始めには、すしは数段に重ねたもの。したがって「すしを盛る」とはいわないで「すしを積む」といっていました。それは戦前のすし屋では当たり前のことだったのです。数人前はもちろんですが、一人前でも、握りずしを斜めに立て掛けるようにしたといいます。また祝い事のときには、大皿などの中央に松や竹の枝を立て、これを中心に握りずしをピラミッド状に積みあげました。これを「杉形(すぎなり)積み」と呼びます。今でも巻きずし(細巻き)を高く積み上げる盛り付け方を「杉形積み」と呼ぶことがありますが、その名残りですね。

とはいえ、戦前にも「流し盛り」なる盛り方はありました。「台屋」のすしです。台屋とは遊郭の中で営業していた料理屋のことで、すしに限らず料理全般を扱っていたといいます。すしの注文があると、遊郭という土地柄上、台屋は酔客や遊女を喜ばせるものをこしらえます。見た目にもきれいで、しかもすしの数が少なくて済む一段盛り、すなわち「流し盛り」です。たくさんのササの葉で、飾りも入れます。

「台屋から 虎の出そうな すしが来る」
この古川柳は、台屋のすしはササがいっぱいであることを皮肉っているのです。ずるい盛り方の代名詞のような「流し盛り」のすしを、もし出前で一般家庭に持って行こうものなら、「堅気(一般人)の家に台屋のすしなんか、持ってくるなよ」と怒られたそうです。

それが現代では、「流し盛り」がすし屋の正当な盛り方となっています。それには理由があるのです。
まず、これはすしを無理に積み上げませんから、形が崩れることがありません。次に、上のすしに塗った醤油などで、下のすしが汚れることもありません。また、積む手間と時間がなくなったことで、盛り付けが簡単になります。こうした理由に加えて、すしの注文方法にも関係がありました。戦前のすしの注文は「すしをいくら分、お願いね」というように頼んだのに対し、戦後の注文は「すしを何人前」と、人数で頼むようになりました。すし屋はすしが何人前だかすぐわかるようにするため、一段盛りを採用したのです。
何より、見た目がパッと鮮やかで、また、持ち運びも簡単な「流し盛り」は、戦後の風潮に乗った盛り方だといえましょう。

握りずしは手で食べる?お箸で食べる?

さて、握ったすしは、どうやって食べるのがよいのでしょう。箸ですか?

まぁ、人それぞれでしょうが、起源的にいえば、これも握りずしが生まれた頃の話となります。握りずしは江戸の下町生まれとされ、最初は露天商や屋台で売られているものでした。そんな場所ですから、食器などは満足にそろえられません。箸だって、用意すれば、片づけるのに時間はかかるわ、お金はかかるわ…。ですからそんなものは使わずに、手でつまみました。しかし握りずしが大流行し、すし屋も立派な料亭ばりの店舗をかまえるようになりますと、食器も十分吟味して選びます。当然、箸も使います。

当時の屋台の商法が生きているのは現在のカウンター席、料亭型の商法が生きているのは小上がり席です。したがって、カウンターで食べる時は手で、小上がり席で食べる時は箸で、というのが本筋です。しかしそれには職人の腕も必要で、カウンター用に握る場合と小上がり用に握る場合とでは、握り方に差があったのです。

「すしを楊枝に刺して口元まで運び、口に入れるとぱらりとほぐれるくらいの硬さが、ちょうどいいご飯の握りの硬さ」。これはあるすし名人の言葉です。それに関係あるのかどうかはわかりませんが、昔の握りずしは楊枝で刺して食べることもありました。例えば芝居見物の弁当などで、手で食べるには忍びない、さりとて箸を使うには仰々しい。そんな時は楊枝が重宝します。
さぁあなたは、今の時代は、すしは何で食べますか?

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日比野 光敏(ひびの てるとし)
1960年岐阜県大垣市に生まれる。名古屋大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了後、岐阜市歴史博物館学芸員、名古屋経済大学短期大学部教授、京都府立大学和食文化研究センター特任教授を歴任。すしミュージアム(静岡市)名誉館長、愛知淑徳大学教授
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