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すしの歴史(10) 回転ずしの誕生

昭和13年(1938)、ある男が満州・大連で、南満州鉄道、通称・満鉄の総裁・松岡洋右の紹介により、1軒の天ぷら屋が店を出しました。その男の名は白石義明。店の名は「油屋」で、氷の天ぷらを出して一躍有名になります。この氷の天ぷらは、白石が工夫に工夫を重ねた絶品でしたが、終戦で店締めをし、22年(1947)、帰国となりました。

しばらくは故郷・愛媛県にて古商売をしておりましたが、元手を貯めて、その後、大阪府布施市(現・東大阪市)に出て来ます。そこで小料理屋「元禄」を出しました。ここでも氷の天ぷらが名物となり、店は大繁盛。しかし、白石はこの小料理屋の未来にも不安を感じていました。

やがてすし屋「元禄寿司」も始めます。その頃、贅沢品であった握りずしをカウンターで気軽に食べられるよう、一皿に4個の握りずしを乗せ、一皿20円で販売しました。贅沢とされた握りずしを、大衆食へと押し下げたのです。店は大評判で、ますますにぎわいますが、それだけに、人材不足に悩む毎日でした。「集団就職(中学卒業生は金の卵といわれた時代、就職するために集団で田舎から出て来ること)」で都会に出てきた少年を雇っても、すぐに辞めてしまう日が続いたのでした。

そこで考えついたのが、機械ですしを回すことでした。これは地元の組合で行ったビール工場で、ビールびんがベルトコンベアーの上を回ってくるのを見た時でした。「この方式を応用すれば、すしの皿かて機械で流せるはずや」。

1号店開店当時の廻る元禄寿司
※1号店開店当時の廻る元禄寿司
(廻る元禄寿司所蔵: http://www.mawaru-genrokuzusi.co.jp/history/

こうして試行錯誤の結果、ようやく試作品が完成しました。昭和33年(1958)、ついに「廻る元禄寿司」が開店したのです。当時の人工衛星ブームに乗って、つけたキャッチコピーは「人工衛星廻る寿司」。このなんとも大阪らしい直接的なネーミングがまた一般に受けまして、大人気。皮肉なことに、人材不足のために考案した店が、さらなる人出を要求し始めたのです。

無責任な誹謗中傷も多い世界です。「あんなのすし屋と呼べるか」という声もありましたが、評判のよさはそんなものは寄せつけません。ほどなくして支店ができます。芸能人もやって来ます。このすし屋が好まれたのは、すしを乗せた皿が回るという面白さもあったのですが、それ以上に、すしを1皿いくらと明記し、しかもそれを安い価格に抑えたからでした。「すし屋へ行くと、いくら取られるかわからない」という従来のすし屋に対するイメージを払拭したのです。

そして昭和45年(1970)、大阪府吹田市で日本万国博覧会が開催されました。「廻る元禄寿司」も出店し、ここでももちろん大評判になります。回るすし屋は日本中に知られることになりました。「万博がわが国のファストフードの夜明けやったんやなぁ」と昔を懐かしむのは、この時大学生で、毎日、万博会場へ手伝いに行っていた、白石の息子・博志です。

それとはまったく違う話をしましょう。
昭和36年(1961)、三重県四日市市の「すわ寿司」の店主・上田三郎は、店の中をカーテンレールのようなもので張りめぐらせ、そこにすしの皿を吊るして回したのです。「まるで御在所岳のロープウェイみたいや」と、すぐに評判になります。また、カーテンレールですから2階へも繋げられ、すしの皿も同時に2階へ。1階にいる職人の握ったすしが2階の客のもとに、機械が運んでくれる、前代未聞のすし屋です。まさに「2階建ての回るすし屋」の誕生でした。

回転ずしが登場してから60数年。その人気は今も変わりません。それどころか、技術は日に日に進歩しています。最近の回転ずし屋ではすし皿だけでなく、うどんやそば、ラーメンをはじめドリンク類やデザートまで、ファミリーレストランのようにたくさんの食べ物が回っています。これも、新しいすし屋の流れでしょう。

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日比野 光敏(ひびの てるとし)
1960年岐阜県大垣市に生まれる。名古屋大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了後、岐阜市歴史博物館学芸員、名古屋経済大学短期大学部教授、京都府立大学和食文化研究センター特任教授を歴任。すしミュージアム(静岡市)名誉館長、愛知淑徳大学教授
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