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すしの歴史(7) 華屋与兵衛に関する銘店

与兵衛ずしの創始者、初代・華屋与兵衛はどんな人?

初代・華屋与兵衛は「与兵衛ずし」の創始者です。華屋与兵衛といっても、今あるチェーン店ではありません。19世紀に活躍した、握りずしの考案者だといわれている人です。

与兵衛は寛政11年(1799)、江戸の霊岸島(中央区新川)生まれ。福井藩出入りの八百屋の息子でしたが、生まれてまもなく母と死別し、わずか9歳で蔵前の札差・板倉屋清兵衛の家に下男として奉公します。札差というのは米の仲買のような仕事で、旗本や御家人は幕府から支給される祿米を米問屋に売ってお金に変えるのですが、その面倒な仕事を代行するのです。そんな大人の世界を見ながら、少年・与兵衛は10数年の間、育ちました。

札差業を20数歳で辞めた後は、古道具屋や干菓子屋など、商売を転々としましたが、文政年間(1818〜1830)、本所(墨田区)の横網ですし屋を始めます。とはいえ1軒の店を構えるわけでもなく、横網の長屋から本所松井町の岡場所(幕府非公認の遊里)かいわいを、夜遅くまですしを歩き売りしていたようです。こうしてお金を貯め、ついに尾上町(両国)回向院前に、小さな店を持つに至ります。

江戸三大すし屋の1つである与兵衛ずし

この与兵衛ずし。当初のすしは押しずしだったようで、文政の頃の狂歌に「押しのきく人は松公と与兵衛なり」というのがあります。「松公」とは与兵衛と同じ頃にできたすし屋でして、これがまた一風変わった商売をやったことで有名なのですが、それはまた別稿で述べることにして、とにかく、与兵衛が関西風の押しずしを売っていた証拠になります。それがのちには「こみあひて 待ちくたびれる 与兵衛鮓 客ももろ手を 握りたりけり」(安政5年(1858)『武総両岸図抄』)と読まれており、与兵衛ずしが握りずしを作っていたことがわかります。また「客来 争坐 二間中(客が来て、二間のところに争うように座る)」(天保7年(1836)『江戸名物詩』)とあるように、客が座るところは2間。1間が182センチ程度ですから、間口が2間だとしても(奥行きがよくわかりませんが)、3メートル60センチくらい。そこに客が争うように座るのですから、人気のほどが知れますね。以後は大好評を博して店も大きくし、やがて江戸三大すし屋(あとの2軒は「松がすし」と「毛抜きずし」)にも選ばれるのです。

最初の頃は手頃な価格で評判を取っていた与兵衛ずしですが、それからしばらくすると、高級路線を歩み始めます。ただ、高い値段を取る店を毛嫌いしたのではなく、庶民は「いつかはあんな店ですしを食ってみてぇな」と、むしろあこがれていたのです。そんな折り、天保の改革です。ぜいたくはよくない、倹約しろと、まぁうるさいものでした。それは食べ物にも及び、与兵衛たち高価なすしを出すすし屋も「手鎖の刑」、すなわち、すしを握れなくされていまいました。それでも、そんな改革がうまくいくはずはありません。解放された与兵衛は遠慮なく、高いすし屋を営業してゆくのでした。

与兵衛は握りずしの考案者?

一家は八百屋を営んでいたとのことですが、その父は「泉藤兵衛」、祖父は「泉茂右衛門」という名前でした。苗字を名乗ることができるのですから、出は武士ではなかったでしょうか。私は、福井藩の武士であったと思います。前にも少し出てきましたが、与兵衛さんの子孫の苗字は「小泉」といいます。この「小泉」は「泉」姓と関係があるのかも知れません。また、屋号の「華屋」。これも、よくある「花屋」の方を書く場合があります。「華や」とすることもありました。由来は、わかりません。「花のように美しく」という意味が込められているのかもわかりませんね。

ところで、与兵衛は握りずしの考案者だといわれていますが、実のところ、どうなのでしょう。実は与兵衛以前にも、握るすしがあったのです。小泉迂外という、4代・与兵衛の兄の書『家庭 鮓のつけかた』(1910)に中に、従来のすしはご飯が多くて下品ゆえ、これを改める、また、ひとつひとつを握り、箱に入れて押すのだが、それだと3日たっても味は変わらないものの悠長だ、さらには、魚の脂分を絞ってしまって不味くなる、などとあります。初代・与兵衛はこういうことを改め、新しいすしを生み出したのです。ですから正確にいうと、与兵衛は握りずしの発明者ではなく、変革を成し遂げた「大成者」だといえるでしょう。

尾上町(本所元町と改称)の店は「二間」どころではない、立派な料亭のような作りになっていました。すしはちょっと甘い味が特徴だったといいます。昭和5年(1930)頃、多くの人に親しまれた与兵衛ずしは、惜しまれながらも閉店しました。

銘店、吉野鮨と㐂寿司

握りずしを大成した初代華屋与兵衛が興した両国の「与兵衛鮓」は、その後も順調に繁盛しました。 たくさんの弟子がいて、のれん分けをしてもらったお店もあったのでしょうが、四代目の小泉喜太郎の頃、今につながる銘店が登場します。
その名は「吉野鮨」。1879年の創業だそうです。

「吉野鮨(吉野鮨本店)」

初代の吉野政吉は小泉喜太郎の兄弟弟子で、ともに「与兵衛鮓」の三代目の教えを請うた人物でした。ちなみに喜太郎の弟が、のちに俳諧の世界で名をはせる小泉清三郎(迂外)で、『家庭 鮓のつけかた』の作者でもあります。

政吉の孫が曻雄。すしの研究家として有名ですが、年輩の方にはドラマ「事件記者」などに出演していた俳優さんとしておなじみでしょう。

「吉野鮨(吉野鮨本店)」は、新しい技と昔ながらの技法を織り交ぜながら、今でも日本橋で営業を続けています。今の東京ではめずらしい「合わせ酢に砂糖は入れないこと」を守り抜いているお店です。


「㐂寿司」

「与兵衛鮓」の小泉喜太郎の弟子筋に当たったのが油井㐂太郎。
明治の終わり頃、柳橋で「㐂寿司」という店を開きますが、1923年、人形町にも店を出し、現在ではこちらの店だけが「与兵衛鮓」の味を、今に受け継いでいます。

むろん、合わせ酢には砂糖は入っていません。
屋根の上には「御膳㐂寿司」と書かれた看板。すしが大切な食べ物であることを物語っています。

系譜

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