facebook line

すしの歴史(7) 華屋与兵衛に関する銘店

「吉野鮨(吉野鮨本店)」

握りずしを大成した初代華屋与兵衛が興した両国の「与兵衛鮓」は、その後も順調に繁盛しました。 たくさんの弟子がいて、のれん分けをしてもらったお店もあったのでしょうが、四代目の小泉喜太郎の頃、今につながる銘店が登場します。
その名は「吉野鮨」。1879年の創業だそうです。

初代の吉野政吉は小泉喜太郎の兄弟弟子で、ともに「与兵衛鮓」の三代目の教えを請うた人物でした。 ちなみに喜太郎の弟が、のちに俳諧の世界で名をはせる小泉清三郎(迂外)で、『家庭 鮓のつけかた』の作者でもあります。

政吉の孫が曻雄。すしの研究家として有名ですが、年輩の方にはドラマ「事件記者」などに出演していた俳優さんとしておなじみでしょう。

「吉野鮨(吉野鮨本店)」は、新しい技と昔ながらの技法を織り交ぜながら、今でも日本橋で営業を続けています。
今の東京ではめずらしい「合わせ酢に砂糖は入れないこと」を守り抜いているお店です。

「㐂寿司」

「与兵衛鮓」の小泉喜太郎の弟子筋に当たったのが油井㐂太郎。
明治の終わり頃、柳橋で「㐂寿司」という店を開きますが、1923年、人形町にも店を出し、現在ではこちらの店だけが「与兵衛鮓」の味を、今に受け継いでいます。


むろん、合わせ酢には砂糖は入っていません。
屋根の上には「御膳㐂寿司」と書かれた看板。すしが大切な食べ物であることを物語っています。

系譜

東南アジアから日本へ 日本古来の「発酵ずし」と、最古のすし屋「つるべすし 弥助」 なれずしからナマナレへの進化 江戸の握りずし文化と華屋与兵衛 握りずし文化を支えた半田の赤酢と中野又左衛門 各種すしの歴史 華屋与兵衛の流れを汲む銘店 関東大震災とすし職人 戦後のすし 回転ずしの誕生 すしからSUSHIへ すしの歴史TOP
PAGE TOP