すしのフォークロア
はじめまして。小倉ヒラクです。僕は「発酵デザイナー」という肩書で、日本各地の発酵文化を訪ねる仕事をしています。
この連載では、古今東西様々な郷土ずしを例にあげながら、おすしの文化を掘り下げてみたいと思います。
すし民族とは?
僕のコラムの読者はご存知の通り、おすしは日本に固有の文化ではなく、東アジア〜ミクロネシアに伝播している普遍的な食の技術といえます。 アジア各地のすしを知るうちに、多様なすしの背景には、国境や人種を超えた「すし民族」と呼べそうな文化の共通性があるのでは…?と思うようになってきました。今回はすし民族を定義するとしたら、それはいったいナニモノなのか?ということを考えていきます。
そもそも、古代のアジア人がすしを作り始めた最初のモチベーションは何だったのか。「放っておいたらすぐに腐る肉や魚のタンパク質を、いかにして常温で長期保存するか」という生存戦略でした。
すしのルーツを遡ると、中国南部から東南アジアの山岳地帯に暮らす少数民族の知恵に突き当たります。高温多湿の熱帯・亜熱帯の環境で、冷蔵庫のない時代。
川や湖で捕れる魚や、山で仕留めた獣の肉は、そのままにしておけばあっという間に腐敗してしまう。
たとえばシーズンになると、大量に捕れる川や湖の魚。焼いても煮ても食べきれない。ではどうするか。東アジア以外でよく見られる方法論としては、塩蔵や燻製にするのですが、アジアのすし民族はひと味違う方法を生み出しました。
それが、「米を合わせる」というアイデアです。
塩蔵であれば塩の作用で、燻製であれば灰の高アルカリで腐敗をもたらすばい菌を締め出します。これは物理の作用で比較的答えに辿り着きやすい。
しかし、米と合わせるおすしはもう少し手が込んでいます。ここには物理作用に加えて、微生物による発酵の原理があるのです。
理屈を解説してみましょう。
古代のおすしに活躍する微生物は主に乳酸菌です。乳酸菌は、米を炊いたり蒸した時に生成される糖分をエサに増殖し、乳酸というまろやかで酸っぱい酸を作り出します。これによりすし全体のpHが3〜4程度まで低下(pH中性は6〜7)、腐敗をもたらす菌が活動できない酸性のバリアができます。
塩の作用に加えて発酵による酸でタンパク質の保存性を高めるこの技法がすしの原風景、なれずしです。

普通だったら魚を塩や灰といった物理原理で保存するところに、酸を加えてしまう。そして保存性を高めるための副産物であったはずの酸が新たな味覚文化を生み出した。
これがすし民族の起源ではないでしょうか。
水田稲作とすしの伝播
すし民族によるこの発酵技術はどうやってアジア中に広がっていったのか。その鍵を握るのが、水田稲作の伝播でしょう。
すしの文化は、お米と魚が出会う場所で育まれました。
アジアでは、中山間地や平野部で本格的な水田稲作が始まると、田んぼには自然と水生生物が集まるようになったはずです。
そのなかには、フナやドジョウ、ナマズといった淡水魚たちがいて、それがすしの材料になったはずで。
農耕民族は、お米を育てると同時に、田んぼやその周辺の小川から淡水魚をゲットするようになります。
「お米があり、魚もある。したがって発酵させるべし!」
なぜ東アジアですし民族が生まれたのか。それは主食を米とする水田稲作という農業技術が鍵を握っていたのです。
米が乳酸菌やカビといった発酵菌と相性がよかったために、すしが発達していったとも言える、つまりすしは人間と菌と風土が共に育んだものと言えるでしょう。
水田稲作の技術は、中国南部からベトナム、タイ、ラオス、ミャンマー、そして朝鮮半島へと北上し、そして弥生時代に日本に持ち込まれることになります。このルートがつまり、すし文化の伝播ということになります。
今でも東南アジアの山間部には、魚だけでなく、豚肉などを少量の米で発酵させた肉のすし(ネームなど)が残っています。これはすしの当初のコンセプト、魚に限らず動物性のタンパク質を保存するための知恵および、稲作が普及する平野部のように米が豊富に使えなかった事情を反映していて起源のすしの面影を残しているようで面白い。
すしの伝播の足跡が、そのまま発酵食のグラデーションとしてアジアの地図に刻まれているんですね。










