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北海道札幌の寿司屋「鮨処いちい」の女将 井出美香です。
								このコーナーでは春夏秋冬の「おすし」にまつわる小話をさせていただきます。

四月は旅立ちの季節。
いつも通ってくださっている常連さんが、家族で来店した。
奥様と息子さんと娘さんの四人でカウンターに座った。
十二歳だという息子さんは少し緊張しているよう。
父親は嬉しそうにニコニコしている。
「これは何の魚ですか?」、「これはキンキだよ。」
「これは何ですか?」「これはツブの肝だよ」と、しばらくの間、少年と大将の問答が続く。
寿司のことを聞いている彼は、キラキラした表情で楽しそうだった。そんな彼と会話をする大将も、とても嬉しそうだった。 父親は普通のサラリーマン。寿司が大好きで、息子の誕生日には毎年家族で来店していた。来店する度に、大将は、寿司屋の修業エピソードを彼に話していた。

その少年が十七歳になったある日。 「寿司職人になりたい」と言い出した。
その時は周囲も驚いた。まさか本気で寿司職人を目指すとは家族も思っていなかった。
彼は寿司が大好きで、どうしても寿司職人という仕事に興味があるという。
「中途半端な気持ちでやるなら、やめたほうがいい。」と大将の激励。
やるならほんとうの覚悟が必要だと話す大将の表情は真剣だった。

その会話を聞いている父親が、すこし涙目になっていたのを、今も思い出す。
それから数年が経ち、少年だった彼も大人になり、東京の寿司屋で働いている。
すっかり一人前の寿司職人になった。 「大将、今の美味しいものをお願いします。」今年も顔を出してくれた青年。
彼のために握る大将の一貫は、帆立の卵巣の握り。
三月から四月にかけて大きくなる帆立の卵巣と白子は、鮮度が良いと生で食することができる。
甘くてプリプリなその味わいは今しか食べることができない北海道の旬の食材だ。
美味しそうに食べる彼の表情は、子供の頃と変わらない笑顔のままだった。




※これは「鮨処いちい」に来られたお客様の実話をもとにした小話です。

井出 美香 (いで みか)
北海道札幌の寿司屋「鮨処いちい」の女将。東京にてキャラクターデザイナーを経て寿司屋のおかみさんになり日々奮闘中。レシピ本発行、エッセイや旅のコラムなど執筆中。
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