
11月1日は「すしの日」です。誰もが知っている前日のハロウィンとは違い、あまり知られていないかもしれませんが、寿司にとって重要な日です。今年25周年を迎えた静岡市の清水すしミュージアムとミツカン「すしラボ」が、ドリームプラザで「すしの日」イベントを開催しました。ここではそのイベントの様子をご紹介します。


メインイベントは清水すしミュージアム名誉館長の日比野先生とお酢の専門家である私のトークショーです。司会はドリームプラザの上原美咲さんが務めました。このトークショーでは、江戸時代の「コハダの握り寿司」を試食しながら、当時の寿司についての話が聞けました。上原さんの軽快な進行でトークショーが始まりました。


上原さん:「すしの日」の由来は何ですか?
日比野先生:いくつか説がありますが、最も面白い説をご紹介します。それは、『平家物語』に始まり、江戸時代の歌舞伎に基づくものです。物語の中で、平維盛が戦に敗れて奈良の山中に逃げ、寿司を営む男と出会います。彼は「弥助」と名乗り、寿司屋になりました。それが11月1日だったため、この日が「すしの日」となったのです。

上原さん:当時使われていたお酢と寿司の特徴は?
私:1800年代初め、江戸時代の握り寿司には赤酢が使われていました。赤酢は熟成した酒粕を原料にしたお酢で、ミツカンが大量生産したものでした。この赤酢は飴色で、寿司飯が山吹色になることから「山吹」と呼ばれています。また、このお酢は甘みとうま味があり、少ない塩だけで美味しい寿司飯が作れるのが特徴です。当時の寿司は現在よりも大きく、寿司飯の重さは約50g、今の寿司の約3倍の重さでした。

上原さん:なぜ当時の寿司は大きかったのですか?
日比野先生:これは考え方の違いで、当時のおすしが大きかったというより、今のすしが小さいといった方がよいかと思います。すしは直接口に入れるもので、これは今でいるおにぎりと同じだったといえます。おにぎりの大きさは、今の握りずしの3倍くらいありますね。だから、当時としては、当たり前の大きさだったのです。
上原さん:当時米酢が不足していた理由は?
私:1800年前半は化政文化の時代で、着物の色止めや紅花からの色素の抽出などの工業用途に大量の酢が使われました。そのため米酢が不足し、愛知県から弁才船により大量の赤酢が運ばれるようになったのです。

上原さん:江戸時代のマグロはどうでしたか?
日比野先生:当時は冷蔵技術がなかったため、脂の多いマグロはすぐに傷むため人気がありませんでした。「猫またぎ」と言って、猫ですらまたいで通るほどでした。マグロが寿司の主流になったのは冷蔵庫が普及してからです。
上原さん:すしの歴史は?
日比野先生:寿司の起源は東南アジアにあり、発酵させて作るものでした。それが中国を経て日本に伝わり、酢を使う現在の形になりました。すし文化は日本で花開いたのです。
上原さん:日本のお酢の起源は?
私:中国から米酢の作り方が4~5世紀に伝わり、それ以来日本では米酢が主流でした。現在ではお酢は調味料としてだけでなく、健康のために飲用することも広がっています。




イベント会場では、子どもたちや親御さん、そして昼休みの会社員たちが興味深そうに参加していました。大きな寿司に最初は驚きつつも、みんな楽しそうに味わっていました。寿司の大きさに驚く子どもたちの笑顔が印象的で、寿司の仕事をしていることに喜びを感じました。
トークショーの外では、東海大学海洋学部の渡辺友美先生が「LOVE MAGURO展」を開催していました。この展示は、来場者にマグロの魅力を伝え、マグロの街である清水を誇りに思える内容でした。

また、清水すしミュージアムでは、子どもたちが楽しめる「酢っごいキッズ」(一般財団法人招鶴亭文庫提供)の「まちがいさがし」や「ちがう絵さがし」も展示されており、館内は子どもたちの楽しそうな声が響いていました。

ミツカンにとって清水は、江戸時代に赤酢を江戸に運ぶ弁才船の重要な寄港地でした。その清水で、200年以上の歴史を持つ赤酢を使った寿司のイベントを開催できたことは、とても感慨深いものでした。