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(4)待ってました!半田亀崎の潮干祭り
半田亀崎の潮干祭

 「半田ですし食べりん」とキャンペーンを打っていた半田市観光協会。祭りの日に、見ず知らずの中年男を招待してすしをふるまってくれる親切な家など、紹介してくれることはないだろうなぁ…、とぼやいていた私だが、そんな私に「救いの手」を差し伸べてくださったのが江上瑞子さん。以前、このコーナー「勢揃い、半田のすしの三種盛り」の取材のときにお世話になった方のひとりである。「祭りの日には必ずおいでね」のことばどおり、5月の祭りの日にお誘いくださったのである。そこで、亀崎出身の竹内葉子さんと半田市観光協会の鈴木晶子さんの案内で、念願の「お祭りのすし」の取材へと出かけた。

神前神社

 祭りは、亀崎・神前神社の潮干祭。これは、毎年、5月3日、4日に開かれる。神社の祭神である神武天皇東征の折、海からこの地に上陸したとの伝説にちなんでいる。祭礼の起源は定かではないが、文明の頃(15世紀後半)。亀崎に住む18軒の武家の発起により、荷車のようなのものに笹竹を立て、神紋を染め抜いた幕を張り、囃子を入れて、町内を曳き廻したのが起源とする伝承がある。専門家の調査では元禄~宝暦年間(17世紀末から18世紀前半頃)まではその歴史が確認でき、少なくとも300年以上にわたって、祭りが受け継がれてきたことが明らかになったという。

半田亀崎の潮干祭

 圧巻は5輌の山車を浜へ曳き下ろすところ。伊勢湾台風の後、護岸工事が進んで、海浜への曳き下ろしが途絶えていたが、平成5年、神前神社前に人工海浜が完成し、かつての祭りが復活した。潮の干いた浜に並ぶ5輌の山車は勇壮かつ華麗。まるで浜に華が咲いたよう…、と称されているが、この日(令和6年5月4日)は潮位が高く、まさかの「曳き下ろしされず」。嗚呼、無念…。

 さて、「お祭りのすし」はというと、江上さんの自宅で…、と思っていたら、連れて行かれたのは小さな公園のような場所。デーンとそびえるのは「西村辰男君頌徳碑」と、脇の銅像。その一隅でテントを張り、江上さんが忙しそうに働いて…、いや江上さんばかりではない、「半田のすしの三種盛り」でお世話になった皆さんの顔がそこにあった。しかし、あいさつもそこそこに、まず聞いたのは「西村辰男サンてって、誰?」

西村辰男君石碑

 なんでも名古屋駅前にあったという料亭「香取」の初代当主で、亀崎には縁のある、とても偉い人。でもその子孫の方は遠くに住んでいるので来られない。そのため江上さんが、祭りの日に、ここで宴席を設ける許可を得ているのだそう。とにかく、すぐ隣が神前神社と曹洞宗寺院・海潮院で、この「西村辰男サン」の石碑の目の前にて山車が曳き廻され、神前に並び、そこにてからくり人形技芸奉納がおこなわれる、祭り見物には第一等地である。そこに招いていただき、ごちそうをいただいた。

亀崎のすし

 まずは主目的のおすし。箱ずし、海苔巻き、稲荷ずしが彩りよく並ぶのは、「リハーサル」の時とまったく同じ。まずは稲荷ずしをいただく。あれ? 「リハーサル」の時は油揚げを四角く切っていたのに、今日は三角稲荷か、と、いささか不思議にも思ったが、いや、今日はお祭りだ、小さなことにはこだわるまい。うん、美味。

 続いて海苔巻き。ここには名物のアナゴ、いやメジロが入っている。キュウリやカマボコの他に、プンと香るあぶったメジロ。口に入れる直前の口福感である。そしてひと口、パクリ。いやぁ、万感の味!

 そうして、今回、一番の楽しみにしていた箱ずしだ。一辺に対して斜めに走る具。どの組み合わせがいいかなぁ、と悩んでいたら、傍から今日の料理を担当してくれた奥様方から「ふたついっぺんに食べればいいじゃないの。若いんでしょ!」。「若いでしょ」といわれちゃ仕方がない、それでは遠慮なく…。ひと切れでも大きい箱ずしを、ふた切れもいただいてしまった。お腹がいっぱいになりつつも、この箱ずしの味は忘れられないものとなった。メジロもちくわもでんぶもシイタケも、家庭の味が染みている。

イワシ天(手前)とネギマ 大アサリ 寒天ゼリー

 このほか、これも亀崎特有の串アサリやイワシはんぺん(すり身を蒸したもの)、ところてんや寒天ゼリー、などと、次から次へと出てくる。こちらは、ただただいただく。ビール、日本酒、洋酒…。これもいただく。すっかりいい気持ちになってしまった。味? まずかったら、いちいちこんなとこに書くかい! もちろん、無上の佳味でした!!

 そうしていると、目の前が著しくにぎやかになった。神前神社前にて、山車の曳き廻しが始まったのである。写真で見るとわからないが、山車の曳き回しというのはすごい迫力である。それが5輌。順番に、神前で3回以上、曳き回す。

曳き廻し 棒役・楫役(下右)…楫棒をスライドさせて、山車の向きを変える役

 よく見ると、山車から伸びた綱を持つ人が、ある山車では若者以上、ある山車では子供まで、と、山車ごとに違う。それぞれの規則は、それぞれの山車組が決めているのだという。

 そんな詳しい事情も知らない私の前で、目の前の子供たちと同じく、祭り装束に身を包んだ小学生くらいの子がつぶやいた。「『赤看袢』ってカッコいいなぁ」。「赤看袢」とは若手綱を操り、山車の進行に指示を出す、祭りの花形の役だ。「だったらキミも『赤看袢』になればいいじゃない?」というと、「だってあれは1番の人気者だよ。だいたい、ボクなんかじゃ若すぎるもん」と彼。「いろいろ、むずかしい問題があるんだ」。それだけいうと、彼はテーブルの上にあった盛り桶からすしを取り、口に入れながら走っていってしまった。憧れの「赤看袢」に会いにいったのであろうか。

若手取り・棒頭(赤い看袢)棒役に進行方向の指示を出す、祭りの花形 伊勢音頭を唄う棒役

 しっかり祭り気分を満喫したところで、江上さんはじめ皆さん方にお礼を告げ、帰ることに。ふとテーブルにあった皿の上を見ると、さっきの少年が落としていったのであろう、メジロの切り身がひと切れ。海苔巻きの芯から抜けたのか、箱ずしの具が落ちたのであろうか。いずれにしても、もったいない。私はそれを拾い上げてパクリ! 最後に、またおいしかった。あ、そうそう。帰り際に西村サンにもお礼代わりで、銅像の写真も1枚。カシャッ。

 後日判明したのは、この西村辰男氏。私財を投じて名古屋の魚商組合員数千人の生活を救い、戦時下においては鮮魚の集荷と配給に身を賭して、県の鮮魚部長に推薦された、というものすごい人。「こらぁ、魚を大切に扱わなきゃ、このワシが許さんぞっ! それに引き換え、あぶったメジロの切れ端まで食べてくれたおまえ(私)、ありがとうよ」。遠い空から、翁に褒められたような気がした。

このお祭りに訪問するきっかけとなった出会いとは?
日比野 光敏(ひびの てるとし)
1960年岐阜県大垣市に生まれる。名古屋大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了後、岐阜市歴史博物館学芸員、名古屋経済大学短期大学部教授、京都府立大学和食文化研究センター特任教授を歴任。すしミュージアム(静岡市)名誉館長、愛知淑徳大学教授

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