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新日本すし紀行

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第12回 例大祭は250年の歴史あり 島勝神社の「カマス祭り」

例大祭は250年の歴史あり 島勝神社の「カマス祭り」

 島勝は紀北町の南端。小さな半島の先に位置する、小さな部落である。澄んだ海と深い山が印象的なところであるが、今の世の流れだろう、過疎が進んでいる。地区にある小学校も中学校も、いまは廃校となった。

 この地区・島勝浦の産土神、鎮守神として祀られているのが島勝神社である。その例大祭は250年近い歴史を持ち、春1月と秋10月に開催される。これらは大漁祈願と海上安全を願うもので、とくに秋祭りは、法被姿のたくさんの子どもたちに山車が引かれて練り歩き、また三番叟の舞が有名でもあった。が、ここにも過疎化の余波で、平成25年度で三番叟の舞も練り歩きも取りやめになった。

 それにしても神社は、あまりにも荘厳な社殿である。隣部落の神社の宮司であり、民俗学研究者でもある東成志さんによると、この地区は明治年間から高級魚・ブリの定置網漁がおこなわれ、「島勝大敷」(敷とは定置網のこと)なる組織まで立ち上げた。おかげで地元漁民は「大尽」ぞろい。島勝神社はブリによって支えられているといっても過言ではない。「私らのところの港にゃあブリが来るなんてことはなかったですよ」と、東さんは苦笑いをする。なお、この組織。会社経営になったものの、現在も続いているというから、すごい。

 ところが、というべきか、だからこそ、というべきか、島勝神社の秋祭りにはブリのすしがごちそうに出ることはない。代わりによく作られたのはカマスずしで、これが神饌として使われる。秋祭りは「カマス祭り」とも呼ばれている。なんでも、昔、不漁が続いていたときにカマスの大群が島勝に押し寄せて大漁になり、神社はカマスの姿ずしを作って地元の人に配って祝った。以来、近隣からも多くの人々が参拝し、すしをもらいに来た、という。

 それはいつ頃の話なのか。島勝区長の中村公穂さんに聞くと、「そうさねぇ。私らはそう聞いとるけど、いつの頃かはわかりませんなぁ」。それほど古い時のことである。その中村区長は、今年、身内に不幸があり、神社への立ち入りはご法度。そこで神社の脇にある集会場で待機中であるが、祭り準備の進捗状況が気になる。もどかしそうだ。

島勝浦島勝神社

 祭りの前日(10月7日)、島勝神社の社務所でカマスずしを作るという知らせをいただいた。9時頃に到着すると、すでにおふたりがいらしていて、姿ずし作りをしておられる。朝、7時頃から始めていたそう。奥村りつ子さんがカマスの腹に詰めるご飯を握り、松島照美さんがそれにカマスの身をあててすしの形に成形する。あざやかな手さばきだ。

 そんなところへ遅れて来られたのが谷口一二三さん。この人の仕事が、また速い。まさに名人3人の競演で、カマスのすしは着々とできあがっている。昼頃までには、目標とする100本のすしができていた。

 谷口さんによれば、このすしをつくるのは男性の仕事だったという。40年ほど前からそんな習慣は消え、近頃は女性の役割になっている。昔の男たちがマスク姿で神妙な顔つきをしながらすしを作っていたであろうが、「今じゃマスクも要らんでの」。女性3人の厨房はにぎやかで、ときおり笑い声があふれていた。

 「昔は朝にカマスを獲って来ると、さばいて塩して、夜にはすしにして食べるんさ」。ふつうは一晩置くものだが、すごいスピ―ドだ。しかし、さばくといっても容易ではなかろう。「今の若い人には無理でしょうね」と聞くと、「島勝の女はカマスの干物を作るから、さばくのにはなれとるさけ」と返ってきた。

 「さぁ、味見をしてくださいよ」と島勝神社の堤和敬宮司が、できたばかりのカマスずしを持って、中村さんがいる集会場へと誘ってくれた。「わぁすごい。いただきまぁす!」とばかりに箸を伸ばしかけたが、考えてみればこのすしは神様へのお供えになる。もし、今、手を出したら、神様よりも早く、すしを食べてしまうことになるわけだ。いくらなんでも、それは…。というわけで、すしは食べず、ご好意だけをいただいた。

カマスずし 姿ずし作りカマスずしを作るカマスずし 女性3人

 その夕方。いよいよカマスずしが神前に供えられる宵宮祭りが始まった。カマスずしはまとめて100本が供えられるのかと思っていたら、ちゃんとお膳に置かれている。お膳は三方が18膳、塗り膳が4膳の計22膳。お膳に乗るものも決まっており、大根なます、「キイチゴ」の葉の上に乗った甘酒(飲料というより食べる甘酒のよう)、クロムツが2尾、ソマカツオ(ソウダガツオ)の塩漬けの切り身。そこにカマスの姿ずしが1本つく。三方は島勝神社に祀られている神様(内社)の分。塗り膳は島勝以外の神様(外宮)の分。すべてが神前に並べられる。また、手前の祭壇には洗米、酒、魚、野菜、果物などのお供えもそろい、いよいよ宵宮祭が始まる雰囲気が高まる。

 開始時刻の18時が近づく。私は拝殿の外で見ていたら、中から進行役の人が手招きをする。どうやら、お前も一緒に上に来い、という意味らしい。堤宮司のお心遣いであろうか。ともあれ、私は拝殿の上の人となった。

 お供え物はすべてそのままで、明日の本祭りを迎えるのだという。私たちもお神酒をほんの少しだけよばれて帰り、明日に備えた。

阿蘇の山々阿蘇の草原カマスずし

 本祭りの10月8日。昔だったら山車だ舞だと見世物もたくさんあっただろうが、今は本当に何もない。この日の儀式にも拝殿の上に上げてもらったが、私の中のメインはカマスずしである。これは、昨日とまったく同じ位置にある。

 40分ほどで神事が終わると、式の参列者は解散。あとは町内放送で、これから先は誰でもがお参りができる、と、お知らせが入る。カマスずしはおまいりに来て寄付をした人にあげると聞いていたので、少し待っていると、「今はどうかねぇ。来るかねぇ」との声。式に参列していた氏子さんのひとりだ。たしかに、もらいに来る人はひとりもいない。

 社務所の方では既製品のお弁当が用意してあり、土地の人は、これから打ち上げをおこなうようである。よく見るとその弁当には、1本ずつカマスずしの姿が。そうか、こういうかたちで、オサガリをみんなに分けているのか!

 谷口さんが再びいう。「この頃は、こんな面倒なもん、作る人も少のぅなってな。『すし』ちゅうたら回るすし屋があるじゃろ? 孫なんかはあっちの方がえぇちゅいとる」。お孫さんの気持ちもわかるが、地域に根づいたカマスずしはなくさないでいただきたい。

 ここ島勝浦は釣りの名所でもある。コロナ禍も明けたことだし、全国の「太公望」の皆さん。豊漁の祈願に秋祭りの島勝神社を訪ね、おまいりでもしたらどうだろうか。ひょっとすると、おいしいカマスずしがいただける、かもしれない。

カマスずし お弁当カマスずし お弁当カマスずし


日比野 光敏(ひびの てるとし)
1960年岐阜県大垣市に生まれる。名古屋大学文学部卒業、名古屋大学大学院文学研究科修了後、岐阜市歴史博物館学芸員、名古屋経済大学短期大学部教授、京都府立大学和食文化研究センター特任教授を歴任。すしミュージアム(静岡市)名誉館長、愛知淑徳大学教授
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