三十代くらいのサラリーマン風の若い男性が、店の暖簾の隙間から顔を覗かせている。
どうやら入店したいようだが、あいにくの満席だった。
申し訳ないので「すみません、只今満席です。もう少しお待ちいただけますか?」と声をかけた。すると男性は、「いえ、寿司折を一人前いただきたいのです。」と言った。
「かしこまりました。では普通の一人前でよろしいでしょうか?」と聞くと、「いえ、すべて雲丹だけにしてほしいのです。」と少し上目づかいに言った。
なんだか少し緊張しているように見えた。
「すこし待ってね、今日は利尻のウニだよ。」と大将が笑顔で答えると、とても嬉しそうにニンマリと笑った。「よろしくお願いします」
そのお客さんは礼儀正しく、狭いお店の入り口で寿司折の出来上がりを静かに待った。
「お待たせいたしました。」と出来上がった寿司折を渡す私に、男性はこう言った。
「ありがとうございます。これから帰って、雲丹が大好きな彼女に、プロポーズします。」
十席ほどしかない狭い店内だ。その言葉はすべてのお客様に聞こえた。そして、それを聞いていたお客様全員がオオーッと一斉に歓喜の声を上げた。
そして寿司屋のカウンターは拍手喝采の場となった。
「今日プロポーズか!」、「頑張れよ!」という男性陣の声援。「雲丹だけの寿司折なんてオシャレだわ!」という女性も。
みんなに励まされた若い男性は、深々と頭を下げてお店を後にした。
時々このエピソードを思い出しては、あたたかい気持ちになる。
あの雲丹プロポーズが成功したかどうかは定かではないが、いつかあの青年が、自分の子供と一緒に、店の暖簾の隙間から顔を出してくれる日が来ることを願っている。
※これは「鮨処いちい」に来られたお客様の実話をもとにした小話です。