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すしの歴史(5) 握りずし文化を支えた半田の赤酢と中野又左衛門

1804年、ミツカンの創業者、尾州半田の中野又左衛門は江戸に下り、江戸の街で人気の『早ずし』に出会いました。
そのころ『早ずし』に使われていた酢は米酢。
又左衛門は、「米酢を粕酢にすることができたら、もっとおいしく手軽なすしが作れるはずだ」と考えました。
そして、半田に戻った又左衛門は粕酢の開発に力を入れ、熟成した酒粕を原料に使った粕酢を完成させました。
1845年頃には、最高級粕酢『山吹』が誕生しています。

又左衛門が作った粕酢は、粕酢の風味や旨みがすし飯に良く合うと、江戸でも人気の握りずし屋が使うようになりました。
そして、粕酢は、江戸っ子のハートを掴み、半田の港から江戸の港に弁才船で運ばれ、江戸の握りずし文化を支えました。

握りずしを大成させた華屋与兵衛の四代目の弟、小泉清三郎が書いた『家庭 鮓のつけかた』の中で、「鮓に使うのは尾州半田の山吹に限る」と称えました。かの北大路魯山人も『魯山人の料理王国』の中で、「上等な寿司」の条件の一つとして、「最上の酢(愛知赤酢・米酢)」を挙げています。

江戸の街から世界に広がるすし文化とミツカンの
酢の切っても切れない関係は、江戸の昔から始まったのです。


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