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六代 中埜又左衛門

波乱万丈を乗り越えた企業家 六代中埜又左衛門 明治21年(1888年)〜昭和35年(1960年)享年72歳

個人商店であった中埜酢店を株式会社化し、初代社長に就任。恐慌・戦争・震災。そして終戦後の混乱と続いた激動の時代を、不屈の精神と攻めの姿勢で耐え抜いた。

五代又左衛門の息子である幸造が家督を相続したのは、五代目が死去した大正8年(1919年)だった。弱冠31歳のときである。少年期の六代目は、酢屋へ入店し、本邸に寝泊まりしていた新入の小僧たちと一緒に雑巾がけなどの雑用もこなしたという。それは、使用人の苦労も身をもって分からせたいという五代目の教育方針のあらわれでもあった。
慶応に学んだ幸造は、明治44年(1911年)に半田に戻ってくると、中埜家の事業経営の一翼を担うようになる。世の中の主な会社が株式会社へと組織変更されていく中で、全国展開し始めた酢屋だけが個人商店のままというわけにはいかず、大正12年(1923年)に「株式会社中埜酢店」をスタート。昔ながらの経営形態にピリオドを打ち、近代的な組織への一大転換を図った。

とはいえ、株式会社中埜酢店の船出は、必ずしも順風満帆といえるものではなかった。株式会社になった2ヵ月後には、「関東大震災」が起こり、関東方面の生産拠点であった丸寿合資会社の工場が倒壊し、関東地区で一手に販売を担っていた中井商店をはじめ、お得意先の多くが壊滅状態に陥った。しかし、立ち直りは早く、翌年には丸寿の工場を「中埜酢店大島分工場」として再興。都心部に東京支店を構え、そこを拠点に新しく特約店制度を構築し、東京・関東市場のルート開拓に全社をあげて取り組んだ。一方半田本店でも、関東大震災の年の12月に第一工場を火災で被害を被ったものの、半田第二、第三工場、尼崎工場のフル稼働で危機を乗り切った。

大正末期の本店の事務風景

昭和に入ると、六代目は大阪支店を拠点に関西および以西の販売強化を図るとともに、当時日本が進出していた台湾・朝鮮・中国本土にまで販路を拡大していった。昭和16年(1941年)には、日本は太平洋戦争に突入。戦時統制の強化により酒粕が入手困難になるという事態に直面したため、翌17年に新原料開発を担う「中埜生化学研究所」を設立した。敗戦によるダメージは大きかったが、主力の半田、尼崎はかろうじて戦火を免れたため、早期の生産再開につなげることができた。株式会社中埜酢店は、終戦日からわずか10日後には新規採用を行っていた。また、出征して帰還した元従業員の全員を再雇用するなど、人を重視する経営方針を貫いて終戦後の混乱期をいち早く乗り切った。

左:宮内庁御用達のラベルが貼られたミツカン清酢、右:宣伝ポスター(昭和10年代)

六代又左衛門が生きた時代は、まさに激動の時代であったといえるだろう。しかし、どんな状況にも耐え抜くことができたのは、六代目の粘り強さもさることながら、少年期にふき掃除をした仲間たちが、六代目と一心同体で中埜酢店を支えたからにほかならない。