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三代 中野又左衛門

新たな時代を見据えた事業家 三代中野又左衛門 文化5年(1808年)〜慶応3年(1867年)享年59歳

“江戸時代に早々と“ブランド”や“特約店制度”といった現代に通じる発想を持ち込む。「安政の大地震」によって被害を受けた地域の復興に尽力するなど、公人としても活躍した。

二代又左衛門の晩年には三代目が二代目と協力し合いながら家業の拡大に努めた。その筆頭に、嘉永3年(1850年)から6年にかけて行われた全長約1.35kmにおよぶ新たな私設水道の敷設工事があげられる。それは、防水の技術を持つ船大工や土木工事を行う黒鍬など、半田はもとより知多半島一体の技術を動員した一大プロジェクトであった。工事は、地域住民の雇用はもとより、周辺地域も含めた経済に大きな波及効果をもたらした。当時の水道のほとんどが城下町水道の時代である。藩が行うような公共事業的な性格を持つ工事に莫大な私財を投じて自分たちの水道を造るということは、極めて希有なことであった。

私設水道絵図

安政元年(1854年)、三代目は下半田村の庄屋を拝命した。その年、「安政の東海大地震」が起こり、さらに翌年には暴風雨と大洪水に見舞われるなど、半田一帯は未曾有の被害を被っている。三代目は公人としての務めを果たすべく、村人の先頭に立ち復興に尽力した。災害で職を失った村人たちの雇用を確保する目的で、自ら資金を投入しての大工事も積極的に行った。このときに手がけられたのが、現在も残る「半田運河」と「中埜宅本邸(山崎邸)」である。

また三代目は地域に貢献する一方で、旧来の販売手法を刷新するなど、気鋭の事業家としての手腕も発揮した。当時は価格の決定権を船頭にゆだねる船手売りが主流だったが、高級酢「山吹」が安く売られてしまうという危険性をはらんでいた。そこで三代目は、地域の船頭を一人ひとり説得し、江戸市場に関しては従来からの最大得意先であった森田半兵衛以外には売らないという、現在の「特約店制度」に似た販売制度を設けた。

中埜宅本邸(山崎邸)

また、個人経営からグループ経営への一大転換を図ったのも三代目であった。元治元年(1864年)に、酒造りの権利のいっさいを手放すことを決断。すべての酒造株を一族および手代に分割譲渡し自らは食酢醸造業に専念。事業の全体を一族関係者の共同経営にする体制を作り上げた。それは、新たな時代を見据えた改革であり、中野家にとって創業以来の大変革といえるものであった。その結果、「中野グループ」という共同経営体が生まれることになった。

酒株の譲渡先を記した「酒株請渡控」