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二代 中野又左衛門

“酢屋の基盤造った二代目 二代中野又左衛門 寛政3年(1791年)〜万延元年(1860年)享年69歳

“酢屋勘次郎”を名乗り、酒造業から酢造りを本業に育て上げた功労者。自ら発案して、芳醇なオリジナル高級酢の開発に成功し、江戸市場に確固たる基盤を築いた。

文化13年(1816年)に二代又左衛門を襲名した太蔵は、初代の希望もあって、当初から酢造りに専念した。二代目は、周囲の期待に応えて粕酢の製造、販売を大きく伸ばし、今日のミツカングループの基礎を確立することになる。しかし、その道のりは決して平たんではなかった。 文政4年(1821年)隣村の酢造家が岡崎藩における酢の独占販売権を得、中野は岡崎城下での販売が禁止された。二代目はこの難局を乗り切るべく、尾張藩御用達であった一族の中野半六に支援を要請するとともに、岡崎藩と粘り強く交渉を重ね、販売権を取り戻すことに成功する。その後は、逆に三河・岡崎の独占権を確保する一方で、最大の市場である江戸市場を有力老舗問屋であった森田半兵衛に一任して販売の強化を図った。また、増大する販売量に対応して醸造蔵の増改築も推進した。家督継承から2年後の文政元年(1818年)には770両であった酢の売り上げが、天保8年(1837年)には3,000両に拡大。純利益も100両程度から1,000両を超えるまでになっていた。

酢屋店卸帳

その間に、二代目は私設水道の敷設工事も手がけている。酢造りには酒造りと同様に安定した水の確保が欠かせない。文政4年(1821年)から工事が着工され、共同井戸の隣に新しく井戸を掘り、木製の水道管(木樋)で醸造場まで水を引くというものだった。

さらに、二代目は、酒粕を3年間熟成させた最上級の酢を「山吹」と命名し、江戸への専売品として売り出している。その頃、半田中野の酢は丸勘と呼ばれるようになっていたが、江戸では尾張からの粕酢には、すべて丸勘印が付けられていた。まだ商標登録が存在しなかった時代である。二代目は特色ある酢を開発し、商品に独自の名前を付けることで、他の丸勘印と差別化を図ろうとしたのだ。それが「山吹」であり、さしづめ現代でいうところのブランド戦略の先駆けであったといえる。続いて「富貴」、「中野」などのブランドも世に送り出された。総売上の3分の1にまで届こうとしていた江戸への販売はおよそ10年後の安政元年(1854年)には、地元への販売を超えるに至る。その扉を開いたのが、二代目が自ら発案したブランド酢「山吹」だったのである。

昭和52年に出土した檜でできた水道